東日本大震災から5年が経過した今、宮城県女川町では、行政と民間事業者の連携による画期的なまちづくりが進められている。その推進役を担っているのは、リクルート出身の若手起業家だ。移住して給料は失った。しかし、「かけがえのないものを得た」と話す――。

震災後、「高給」のリクルートを退職

東日本大震災で住民の1割が亡くなり、市街地の8割を失った宮城県女川町。その後も人口流出が全国最速で進み、震災前に1万人を超えていた人口は現在では6000台まで落ち込んだ。そんな女川町がいま、続々と新たな事業が生まれるまちとして注目されている。

その活動を支えているひとりが、仙台市生まれの小松洋介さん(33)だ。2014年には AERA誌選定の「日本を突破する100人」に選ばれ、2015年には日本青年会議所の「人間力大賞 経済産業大臣賞」を受賞した。

小松さんは大学卒業後、リクルートに就職。入社4年目には拠点長を任されるなど順風満帆なキャリアを歩んできた。なぜ、彼は社員の平均年収が1000万円近いともいわれるリクルート社員の肩書きを捨て、震災前は縁もゆかりもなかった女川町に飛び込み、まちづくりに取り組みはじめたのだろうか。

NHKなどでも取り上げられ話題になった「女川データブック」と小松さん。データを元にしたまちづくりの先進事例として取材や視察が女川町を訪れている。(撮影=和田剛)

震災発生時、小松さんは北海道エリアを担当するチームリーダーとして札幌にいた。その後は毎週末のように三陸沿岸の被災地を訪れ、がれき処理や片付けのボランティアに取り組んだ。

「被災地は大変なことになっていたけれど、札幌に帰ると変わらない日常がある。そのギャップに気持ちの整理が追いつきませんでした」

小松さんは大勢の部下を抱える責任あるポジションにあった。同世代と比べても格段によい待遇にあった。しかし、被災地での経験は彼のキャリア観と生き方を揺さぶった。

「通えば通うほど、このままリクルートにいていいのか、自分に問うようになりました。自分が本当に取り組みたいことは、被災地の復興なのではないかと」

とはいえ、被災地に転職先があるわけではない。生活していけるかもわからない。悩んだ小松さんは、リクルート出身の先輩を訪ねた。そのなかでも特に影響を受けたのが、東京都で初めて民間初の区立中学校校長を務めた藤原和博さん(『人生の教科書[よのなかのルール]』などの著書を持つ教育改革実践家)だった。

「生活も気になるし、リクルートに残ろうかと考えていた頃に『今すぐ辞めたらいい。でも最後は自分で決めたら』とアドバイスをもらい、自分の気持ちに素直になろうと決めました」

震災から半年後の2011年9月、小松さんは7年間務めたリクルートを退職した。次の仕事は決まっていなかった。