現代社会に欠けている知性・教養・文化とは?
その点、幸いにも彼らの多くは「名門校」と呼ばれるような学校に通っている。名門校とは単に偏差値が高いとか、東大にたくさん入っているとか、そういう学校のことではない。目には見えない強烈な教育力を持つ学校のことである。そのような学校で身につけた「ハビトゥス(特定の集団に特有の行動・知覚・判断の様式を生み出す諸要因の集合)」は、「回り道」したときにこそその効果を発揮し、彼らの折れそうになる心を助ける。
名門校の教育力は、本当の意味で自分の人生を歩み出したときにこそ発動する。卒業して20年、30年経ったとしてもそのときが来るのをじっと待っている。まるで植物の種子が発芽のときを待つように。名門校の「ハビトゥス」については拙著『名門校とは何か?』(朝日新聞出版)を参照いただきたい。
つまり彼らは、塾と学校の2つの環境からそれぞれ次元の違う教育を授かるのである。これが名門校と称される学校に通いながら、鉄緑会のようなハイエンドな塾に通う生徒たちが享受するハイブリッドな教育だ。
もし彼らが塾だけに頼り、学校をおろそかにしたら、大切なものが欠けたまま大人になってしまう危険性がある。彼らが日本の「頭脳」になっていくのなら、それはなおさら危険なことだ。「王道」の負荷を余裕でこなしたうえで、「回り道」も味わえるというのなら、最高だ。しかし「王道」を歩むために「回り道」を犠牲にしなければならないとしたら本末転倒。そこまでして「王道」にしがみつく価値はないと私は思う。
「合格」という目的に向かってできるだけ効率的にアプローチしたいニーズに応えて存在する塾が、「回り道」を回避しようとするのは当然だ。批判される筋合いはない。しかしそのような塾が過度に社会に対する影響力を持っているのだとしたら、それは塾のせいではなく、世の中全体が「回り道」を良しとしない効率至上主義に染まってしまっているためではないか。今私たちの社会に、「回り道」「無駄」「不純物」「遊び」など円環的作用をもたらすものの価値を認める知性・教養・文化が欠けている証拠と言えるのではないだろうか。
(教育ジャーナリスト おおた としまさ=文)