高学歴が人生の選択肢を狭めていた
「自分は勉強をがんばることで、人よりも多くの選択肢を得ていると思っていました。しかし実際には、『東大に行ったからにはあんな仕事はできない』という風潮もあって、どんどん自分の選択肢を狭めていたのです。大学受験のときには『なんとなく東大』だと思い込み、一橋大学ですら『亜流』だと思っていました。でも、沖縄で出会った人たちのほうが、よほど自由で選択肢の多い生活をしていたのです。東京に出てくるもよし、地元に残るもよし、会社勤めもいいし、漁業をやってもいい。むしろ『亜流』を選択するほうが、主体的な生き方であることに気づきました。今までの自分の人生には、何と主体性がなかったのかと思い知らされました」
「大学に入るまで塾に頼り切る生き方は、もしかしたら私から、何かを深く思考する能力を奪ったのかもしれないと思うことがあります。もともとそういうことが苦手だったのかもしれませんが、そのことに目を向けず、お山の大将になれてしまうシステムなのかもしれません。そういう生き方が向いている人も必ずいるわけですから、それが一概に悪いことだとも言えませんが」
小学生のうちは、目標の学校に入るためにどれだけの学力が必要で、そのためにどれだけの努力をしなければいけないのかなど、子供本人がわかるはずもない。塾の指導に右向け右になることはやむを得ない。しかし、それが強烈な成功体験として刻まれ、中学・高校になっても塾に頼り切りになってしまうと、主体的な学習習慣を身につける機会が奪われてしまうのかもしれない。
裕子さんが弁護士になって初めて「回り道」を経験し、そこから人生の視界が開けたのと同じように、本当の意味で秀才たちの目を開くのは「王道」ではなく「回り道」ではないかと、取材を通じて、私は感じた。
極論すれば、どんな中学・高校に通っていても、中1から高3まで鉄緑会に通い、鉄緑会の勉強だけを徹底的にこなしていれば、東大合格は間違いないと私は思う。しかしそれだけでは足りない。充実した人生を歩むためには「王道」だけでなくたくさんの「回り道」を歩む必要があるし、たくさんの「回り道」をするためにはそれに耐えられるだけの力を若いうちにつけておかなければならない。心理学用語ではそれを「レジリエンス」と言う。残念ながら塾だけでは十分には身につかない代物だ。