人とのつながりに救われた退職後の人生
泉さんは自らが書いた小説を遠藤氏が読んで、助言をしてくれたことを数日前の出来事のように振り返る。
「400字詰め原稿用紙40枚ほどの短編を、遠藤先生が読んでくださったのです。すばらしい! とおっしゃってくれて、うれしさのあまり、舞い上がってしまいました。ところが、3か所に赤入れがしてあり、それを検討してみると、小説としては成立していなかったのだな、と思いましたね(苦笑)。結局、18回書き直しました」
作品は、遠藤氏が編集長をしていた『三田文学』(慶應義塾大学)に掲載された。
この頃、スクープ記事を書いて、2つの局長賞を受賞した。1968年の夏、陸上自衛隊の武山駐屯地(神奈川県)の敷地内の「やすらぎの池」で起きた、少年工科学校生徒の訓練事故である。渡河訓練で池の深みにはまった13人の少年自衛官が命を落とした。事故の直後、偶然にも、泉さんは駐屯地の横を産経新聞の車で通りかかった。カメラマンと一緒に現場に急いで駆け付けた。
「池から救いあげられた少年自衛官の意識はすでになく、鼻の穴から泥水がダラダラと出てきたことは覚えています。びっくりして、いや、ほんとうに驚きました。彼らは若くとも、国を守る、という一心で訓練をしていたのでしょうね。あの少年たちの遺族や関係者に会って、お話をしたいと今でも思います」
その後、産経新聞社を退職した。3年10カ月の勤続だった。遠藤周作氏のような作家になりたい。そんな思いを抑えることができなくなっていたという。遠藤氏に退職の報告をすると、驚きの表情を見せたものの、仕事をさっそく紹介してくれた。旅行雑誌『旅』(日本交通公社・当時)の「山城めぐり」という連載紀行で、泉さんには山の上にある城跡の写真を撮影する仕事をあたえられた。
「当時から、私は文章を書くことよりも、撮影のほうが上手いのです。信長の安土城などは、印象に特に強く残っています。山城は、おもしろいですよ」
これが、歴史に進んでいく大きなきっかけとなる。泉さんは、遠藤氏が道を開いてくれたと思っている。しばらくは仕事も少なく、食えない時代が続く。その頃、支えられたのが、産経新聞のときのつながりだった。産経新聞を辞めて、美術雑誌『月刊美術』の編集・発行人になっていた先輩記者・中野稔氏(故人)から、画家の斎藤真一の絵を買うことを勧められる。親から借りた16万円で購入したところ、急きょ、美術ブームが湧き、半年後に250万円で売れた。これで、半年分の生活費をまかなうことができたという。
新橋の駅では、『週刊サンケイ』の元編集長・松本暁美氏と偶然、会う。かつての上司である。そのときは、編集プロダクションの社長になっていた。すぐに、大きな仕事をあたえてくれた。2週間、週刊誌のアンカーとして書き続けると、200万円になった。
「2人の娘がちょうど、私立の小学校や幼稚園に進学する時期で、入学金などで200万円が必要になっていたのです。ありがたかったですね。30代になっていたこの時期は、学歴ではなく、職歴ですよ。職歴は生涯、ついてまわりますから、大事にすべきですね。私は産経の頃から、俗流ジャーナリズムの世界でメシを食わせてもらいましたね」