明治大剣道部で「生きるか、死ぬか」の思い

「学歴で人を判断しようとすると、わかりやすいとは思います。たとえば、東大出身の社員ならば、このくらいの仕事ができるだろうな、というように。

しかし、私はその人の生まれ育った環境や祖父母、親などからの遺伝的な要素、そして仕事への適性なども、きわめて大切なものだと考えています。特にこの遺伝的なものは、人を見るうえでものすごく大切です」

木下唯志・木下サーカス社長。明治大学経営学部卒。

ロシアのボリショイサーカス、アメリカのリングリングサーカスと並び、世界3大サーカスの1つといわれる木下サーカス(本社・岡山市)代表取締役社長の木下唯志氏が語る。

12月下旬から来年の2月末まで、都内の武蔵村山市で公演をする。世界でも珍しい猛獣・ホワイトライオンのショーが目玉なのだという。その準備に忙しい日々を送る中、取材に応じた。

今年で創業113年を迎えるが、祖父、父、兄(長男)に続き、木下氏は1991年から4代目の社長を務めている。1950年に次男として生まれ、地元の進学校・岡山県立操山高校を卒業した。

大学入試は、早稲田、慶應、上智、明治の4つを受験した。学生紛争が激しい時代であり、東大の入試が中止となった。有名私大を受験する学生が増えたといわれる年であり、明治大の試験も倍率が高くなったという。

木下氏が振り返る。

「あの年は、早慶上智などの難易度が上がりました。明治の経営学部でも、倍率は50倍くらいに膨れ上がったと聞きます。早慶上智に比べると、明治は難易度が下がりますが、この年は難しかったと思います。私は、明治ならばオール優の成績を目指さないといけないと言いきかせて入学しました」

明治大学経営学部に入ると、体育会剣道部にも入部した。剣道は初心者だった。想像以上に厳しい練習だったという。

「生きるか、死ぬかの思いで稽古をしていました。あまりにも厳しいし、足を痛めましたから、2年の頃、明治を辞めて、関西の同志社大の3年に編入しようと密かに思ったほどです。結局、身体も治り、剣道を続けられたのです。今は3段で、いつか、5段になりたいと思っています」

一方で、特に英語の授業や勉強には精を出した。いずれは英語を使う仕事につきたいと願っていた。実践的な英語を教えることで知られる日米会話学院にも通い、英会話の力を磨いた。

「都市銀行や外務省から派遣されてきた社会人に加わり、猛烈に学んでいました。ネイティブのように、ぺらぺらに話すようになりたかったのです。このときに培った英語力は、大いに役立っています」