兄の死、父の病、そして10億円の負債
就職活動では、都市銀行上位行から内定を得た。オール優に近い成績と高い英語力、体育会剣道部の実績を評価されたと木下氏は受け止めた。
「内定を得た後、医療機関で健康診断を受けたのです。学生は、東大から始まり、旧帝大、その後、早稲田、慶應、そして明治……、さらにほかの私大という順番でした。私はいい気がしませんでした(苦笑)。入行前に、ある種の序列を感じました」
会長である父と社長だった兄は銀行に就職することに反対し、一緒に経営することを促がした。しかし、木下氏は銀行に行くことを決める。その直後に、父が腎臓を患い、病となった。
結局、銀行の内定を辞退した。1974年に卒業し、木下サーカスに入社した。卒業前、ヨーロッパの一流サーカスを見ておこうと得意の語学を生かし、海外視察の旅に出る。世界のサーカスと日本のサーカスの力の差を見せつけられ、今後の目標を胸に帰国した。
入社後、その期待を裏切るような不幸が続く。3年目で空中ブランコの事故に遭い、3年間の闘病生活を強いられる。その後、3代目社長の兄が病で倒れ、1年間、寝たきりとなる。44歳の若さで亡くなった。さらには、父の健康が悪化する。木下氏が4代目社長となった頃、10億円をこえる負債があった。
「ショックでしたね。兄の死のとき、無常という言葉を痛切に感じました。常なるものはこの世にないのだ、と思いました。兄は人徳者でした。1年間、寝たきりであっても、様々な方が支援をしてくださったのです。木下サーカスの113年を振り返るうえで、大きな1年です。
10億円の負債を抱え、社長に就任したときは、これもひとつの人生なのだと言いきかせていました。祖父、父、兄の足跡は立派です。私は、その1万分の1にも満たないかもしれませんが、木下サーカスを守りたいと思ったのです」
社員60~70人の頃だったが、先行きに不安を感じた社員が次々と辞めていく。それでも、強気であり続けた。
「剣道部にいた頃、死ぬんじゃないかと思うほどに厳しい稽古を4年間してきました。あの頃を思えば、乗り越えられると信じていたのです」
10年をかけて返済した。税理士は返済はもうできないから、経営を止めたほうがいいとアドバイスしたこともあったという。
「完全に返済できたのは、奇跡だと思っています。みなさんのご支援やお力のお蔭です。今は、財務状態がかなりよくなりました。1円を笑う者は1円で泣く、という思いを大切にしているのです」