「わざと」ゆっくり走って楽しむ風景と地元の食

以上のような“スピードの経済”は、鉄道事業に限らぬ普遍性のある原則である。とはいえビジネスの世界は、この方向でしか収益が上げられないというほど単純ではない。

鉄道事業をさらに見渡せば、スピードアップ競争に逆行するかのように、何と「わざとゆっくり走る列車」があるのだ。

JR西日本が2017年春の開業を予定している新たな寝台列車「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)」は、その一例である。日本海や大山、そして瀬戸内海の島々の美しい景色を楽しみながら、京阪神と山陰・山陽エリアをめぐる瑞風は、目的地に急ぐのではなく、車窓を眺めながらの食事など列車でゆっくり過ごす楽しみを提供するのだという。

2015年10月からJR七尾線を走る「花嫁のれん」車両の外観と車内。輪島塗、加賀友禅をイメージした。北陸新幹線開業との相乗効果を狙う。(共同通信社=写真)

さらにJR西日本では、北陸新幹線に接続する新たな観光列車として「花嫁のれん」「ベル・モンターニュ・エ・メール」の運行を今秋から始める。これらも地元の風景を楽しみながら、地元の食も味わう楽しみを提供することが計画されている。

JR各社はスピードアップ競争の裏側で、こうしたスピードを落としたり、ゆっくりと停車したりすることに価値を置く観光列車を、各地で運行したり新たに運行しようとしている。「東北エモーション」「リゾートしらかみ」「飯田線秘境駅号」「みすゞ潮彩」「しまんトロッコ」等々、今ではホテル列車やレストラン列車、有名デザイナーによるリノベーション車両や車内での紙芝居上演といった、様々な趣向による各種のスローモビリティを、日本の各所で楽しむことができる。

“スピードの経済”が成り立つ一方で、スピードを落とすことが顧客価値を高める。その最大の理由は、より多くを楽しむために、より多くの時間をかけようとする消費の存在である。

劇作家で評論家の山崎正和氏はかつて次のように述べている。

「人間にとつての(中略)不幸は、欲望が無限にあることではなく、それがあまりにも簡単に満足されてしまふことである。食物をむさぼる人にとって、何よりの悲しみは胃袋の容量に限度があり、食物の美味にもかかはらず、一定の分量を超えては喰べられない、といふ事実であらう。(中略)(そこで)食欲についていへば、(人間は)最大限の食物を最短時間に消耗しようとするのではなく、(中略)より多くを楽しむために、少量の食物を最大の時間をかけて消耗しようとする」(『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、84年)

食事の贅沢は「奇妙な吝嗇」から生まれる、と山崎氏はいう。一片の牛肉を味わうのに、調理に手間をかけ、食器を整え、食卓を飾り、作法と会話に気を配りながら、おもむろに口に運ぶ。ゆっくり走る列車も同様に、より多くを楽しむために、より多くの時間をかけようとする贅沢な消費のあり方だといえる。