3年目に実現した「海外勤務」の願い

1957年4月、福岡市で生まれる。県庁職員だった父、母と妹の4人家族。小さいころは、近くを走っていた電車が好きで、よくみにいった。ときには1人で乗ろうとして、車掌に止められる。乗ればいろいろなところへいけるので、「大人になったら、運転手になりたい」と思っていた。

地元の中学を出て、鹿児島のラサール学園高校へいったのにも、同様の「遠くへいってみたい」との思いがあった。二段ベッドが50、机が100も並ぶ体育館のような寮で級友と暮らし、空き地に「基地」をつくって遊ぶなど、遊び方も自分たちで考え出す。独立心が満たされた日々だった。

大学は東京の上智大学経済学部へ進む。直前に父が亡くなり、母は寂しかったと思うが、「外へ出たい」との思いは、ますます募っていた。国際金融のゼミに入り、ついには「海外で仕事がしてみたい」という気持ちにまでなる。82年4月に埼玉銀行に入り、アンケートで希望の勤務地を尋ねられて「世界中、どこでもいきます」と書いたことを、覚えている。

大阪支店へ配属されて3年目、その思いが実現へ向かう。埼銀には、試験に通ると海外勤務が経験できる制度があり、合格した。1年間の実地研修で、ブリュッセルの現地法人へいけると聞き、フランス語の語学学校に通う。大学時代に触れたフランス語を思い出しながら、夏休みもつぶした。ところが、夏の終わりに電話が入り、行き先がメキシコの駐在員事務所に変わった、と言われた。「体に気をつけてね」のひと声で送り出され、ニューヨーク支店や大学院の修士課程へ華々しく赴く面々との落差も感じたが、仕事はそう忙しくなく、けっこう楽しめた。

帰国後は本部の国際金融部で海外融資を担当したが、半年後に、今度は大手証券のロンドン現法へ研修に出る。1年間、企業の資本調達などの業務を経験し、帰国後も資本市場部で知識に磨きをかけた。もちろん、生半可には終わらせない。さらには、取引先の製薬会社に出向し、転換社債を発行して資金を調達する仕事もやった。これらの経験で得た知見が、のちに公的資金の返済を進めるとき、大いに役立った。

93年3月、総合企画部へ異動し、不良債権問題に直面する。バブルがはじけ、公的資金の注入が決まり、処理が動き出す。当初はそれほどとは思わなかったが、関連ノンバンクで問題が噴き出し、処理計画の策定に当たる。冒頭の鶴ヶ島支店長への赴任前だ。大和との経営統合を実らせた直後、「りそなショック」と呼ばれる事実上の国営化を迎え、公的資金の残高が一気に3兆1280億円に膨らんだ。

2013年4月、持ち株会社とりそな銀行の社長に就任。公的資金は、8717億円にまで減っていた。2カ月前の就任内定会見で「リテールバンキングをコアに業務を続ける一方で、時代の趨勢に応じた金融サービス業に変える。完済へ向けてシナリオを策定し、改革を深化させるのが私の使命」と明言し、完済の実現と攻めの施策の双方を、公約した。

完済は5年計画だったが、2年早め、この6月に達成した。世の中だけではなく、銀行内でも「返済は困難」と言われて12年。様々なドラマのなかで、東流の「智莫大於闕疑」が貫かれ、再び新たな道へのスタートに立った。

りそなホールディングス社長 東 和浩(ひがし・かずひろ)
1957年、福岡県生まれ。82年上智大学経済学部卒業、埼玉銀行入行。2003年りそなホールディングス執行役財務部長、07年りそな銀行常務執行役員、09年りそなホールディングス取締役兼執行役副社長。13年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
【関連記事】
取引先に出向:「お客さまの悩み」に気づかされて -りそなホールディングス社長 東 和浩氏
“異次元”緩和でメガバンクが減益見込むワケ
買収先の「企業文化」は徐々に統合すべきか、一気に融合させるか
40代で選別されるメガバンク、保険、証券は
揺れるバブル入社組「リアル半沢直樹」の7年後