3時間の練習を30分で切り上げた理由

渡辺の初優勝は1973年の選抜。作新学院の江川卓投手が話題をさらった年、初出場初優勝だった。夏はそこから7年後。この年(1980年)、早稲田実業の荒木大輔が1年生投手としてアイドル的人気を得たが、決勝では、横浜のエースで主将の愛甲猛が1年生に先輩の意地を見せて活躍、見事優勝を果たした。

実はこの年の春、愛甲は春の大会の決勝で敗れていた。三塁手のミスが原因で愛甲はグラブを地面にたたきつけて悔しがった。渡辺はこの態度を許さなかった。ワンマンチームから脱皮するために、大所高所からまとめるために愛甲を主将にしていたからだ。

強烈な個性のあるリーダーに預けたプランが実を結ぶかどうかは時の運にもよる。仲間のミスを責めて信頼を失いかけたリーダーを突き放した。愛甲ももちろん、謝罪し責任を全うする。渡辺は、愛甲という優秀なタレントを人間的にひと回りもふた回りも成長させたのだった。

前出の早実との決勝戦で愛甲を好リリーフしたのが川戸浩という左腕だった。この「控え投手」と渡辺とのエピソードも残されている。

実は、川戸は「愛甲がいる間は努力してもゲームに出られないので辞めたい」と言ってきたことがあったという。他校ならエースになる実力があるが、愛甲という絶対的エースがいたため、自分にスポットライトが当たることはない。我慢の限界に達し、退部を決意した川戸。だが、渡辺は「お前は愛甲の影武者ではない。もう1人のエースだ。2人がいて全国制覇を狙えるんだ」と説得して呼び戻した。

渡辺は「去る者は追わない」ことは指導者の立場を放棄してることだと言う。お山の大将は突き放し、レギュラーを支える控えの選手には温かく引き留める。硬軟織り交ぜる渡辺の真骨頂。35歳の出来事だ。

ビジネスマンも青天の霹靂の出来事や、存在を軽視されて窓際に追いらやれそうになることもある。そんな時の冷静な立ち位置が重要だ。

松坂を擁して春夏連覇を成し遂げるのが98年。夏の2回戦、ノーヒットノーランを達成していた杉内俊哉投手(現巨人)のいる鹿児島実に快勝した。

ところが、次の星稜戦を前にした練習で声が出ない。動きは緩慢で覇気がなかった。うぬぼれ、気の緩みがあった。

渡辺は烈火のごとく怒り、3時間を割り当てられた練習時間を30分で切り上げてしまった。選手はバッティングセンターに行き、夜は素振りの自主練習を行ったという。選手の結束力を高め、危機感克服に役立った一種の職場放棄。試合は星稜に快勝する。

順調なビジネスの途上、過信は最大の敵だろう。押したり引いたり。飴とムチと。距離を置くか寄り添うか。選択は難しい。