多額の出費を伴う代替療法をどう考えるか

患者さんが、データの裏付けに乏しい代替療法を望まれることはよくあります。特に標準治療で策が尽きた場合、「代替医療にチャレンジしたい」という相談にも、私たちは向き合わねばなりません。

『がんが自然に治る生き方』にあったような瞑想などには、賛同できる部分もあります。私の勤める病院でも、レイキやヨガなどの体験セミナーを開催することもあります。ただし、それはがんの完治を目指す手段としてではなく、あくまでリラックスや心身の癒しの手段としてです。それを取り入れたからといって、明らかな健康被害や金銭的な負荷を負わせるものではないから、安心しておすすめしている部分もあります。

『がんが自然に治る生き方』(ケリー・ターナー著 プレジデント社)

困るのは、少なからぬ額の出費を伴う代替療法のケースです。

「高額な金銭と引き換えに、その患者さんはいったい何を得たいと願っているのか」

本質的なことを言うと、医師はその部分について徹底的に考えるべきなのです。

つまり医師というのは、科学的、医療的な面に判断していく頭脳的な役割と、患者さんの心理や、患者さんが紡ぎ出す物語に誠実に接していくメンタルケアの役割と、一人で二役を務めることが理想です。

たとえば、標準治療を拒んでまでも代替医療を希望する患者さんや、厳しすぎる食事療法に傾倒しがちな患者さんには、医師が科学的な無効性を訴えるだけでは、足りないのです。

患者さんとの対話の際には、次のような姿勢や話法も必要になってきます。

「医師としては、その食事療法は絶対にすすめません。けれども、あなたの生き方にどうしてもその厳格な食事療法が支えになるのなら、私は止めません」

しかし最もデリケートであるこのようなコミュニケーションの部分に関しては、少なくとも患者さんからみて不十分なところも多く存在しているようにも見受けられます。

極端な例を挙げると、「余命はあと数カ月、治療の手立てはなし」というような余命宣告を突然行い、ホスピスなどへの終末医療への転換を提案して、治療の終了を告げる。非常に残念なことではありますが、そのような医師がいることも事実です。よその医療機関で、そのような宣告された患者さんが、私たちの病院に泣いて駆け込んでくることもあります。

医師とは、揺るぎない事実を冷徹に見極めながら、それを伝えるときには、別の角度からも考える。そのような複眼的な思考が必要なのです。