創部が1970年。当初は大学近くの原っぱで練習し、部員はマネジャーを入れてやっと15人だった。
早大OB、明大OBらの支援を受けて強化を図り、78年、早慶明などがつどう対抗戦グループに加盟する。伝統校の中でもまれ、力をつけていった。
岩出は日体大では主将として大学日本一にも貢献した。その後、教師として中学、高校に勤務し、高校日本代表監督も務めた。
その岩出が、96年、帝京大の監督に就任する。少数の有力校に優勝が限られる大学ラグビーに風穴を開けたい、との思いからだった。
就任2年目、帝京大は試練に見舞われる。部員の不祥事で1年間、公式戦を辞退した。
監督部屋でのインタビューである。その話題となると、コーヒーを持つ岩出の手が止まった。
「とても厳しい体験でした。選手も親もつらいし、関わっている人間すべてがつらかったのです。もう学生につらい思いをさせたくない。だから、ぼくは厳しいディシプリンを求めていこうと決意を強くしたのです」
やるしかなかった。再起のため、小さいことからはじめた。きちっと掃除をさせる。朝起きて学校にいく。講義を真面目に聴く。練習はさぼらない。
「練習を休む者がいなくなっても、情熱をかけて本気でやっているのか、と。毎日、オールアウト(完全燃焼)させる取り組みを心がけました」
事件のあと、すべての部員を寮に入れさせることにした。集団生活のなかで規律の大事さを学ばせることにした。
「もう情熱と根気で。エネルギーがなければ何も生まれない。しっかりした目標と情熱があれば、アイデアが生まれてくるし、賛同者も増えてきます」
環境の整備にも乗り出す。潤沢ではない部費を節約して、毎年、100万~150万円分ぐらいずつウエイト器具を買い足していった。トレーニング場ができるまでは、学校の部室の廊下などで筋力トレーニングに励んでいた。
「いまはパッと見、(トレーニング場は)すごいと見えるけど、実は手づくりみたいなものなんです」
結果が出れば、学校もサポートする。大学選手権でベスト4に入った翌2003年、学校の土のグラウンドから、現在の人工芝のグラウンドに移転した。04年、クラブハウス横にウエイトトレーニング場が完成し、07年には天然芝のサブグラウンドも加わった。