教えられたことを忠実に実行しようとする律儀さ

日本人が時間に厳しいという日本人および訪日外国人の印象は、少なからず鉄道の運行時間の正確さからきている。筆者の経験からも、英国では今も列車の10分遅れはon timeのうちだし、定刻より早く出発したり、運行自体がキャンセルされることも珍しくはない。社会インフラの変化は日本に限った話ではないのに、なぜ日本ではここまで時間厳守が追求されるようになったのか。ここでは、鉄道の運行の変化に絞って分析していこう。

日本で定時法が導入されたのは、1872(明治5)年11月の太政官達により、翌73(明治6)年1月1日以降、太陽暦が採用されてからだが、実は、鉄道開通は72年5月。太陽暦の導入より早かった。

不定時法の下では、鉄道はまず運行できない。鉄道開通にあたり工部省鉄道寮では、「芝増上寺の大鐘を愛宕山に移して、定時法で鐘を鳴らしてはどうか」などと提案している。

最初に開通した新橋-横浜間鉄道では、当時の写真で確認する限り、英国人技師が設計したと思われる駅舎の外部に時計は見られない。しかし、2年後の74(明治7)年にできた大阪の停車場には、駅舎正面に大時計が設置されていた。

定時運行を確立しようとした初期の鉄道関係者のこうした努力には、教えられたことを忠実に実行しようとする日本人特有の律儀さも影響していたと思われる。

日本の鉄道はもともと、明治初期に英国の鉄道システムを移入したもので、直接的には明治政府が雇った外国人技術者たちから学んだものである。具体的な運営ノウハウは、英文のマニュアルを翻訳することで伝えられた。停車場の戸の5分前閉鎖も、マニュアルの指示を日本人駅員たちが律儀に守った結果である。

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官営鉄道と民営鉄道の連帯(=乗り継ぎ)輸送量の増加ぶり

明治時代も半ばになると、英語そのままだった鉄道用語も徐々に日本語化され、運行の技術やノウハウも現地化されていった。それと並行して鉄道の輸送量も上がっていく。

日本の鉄道の輸送量は、1894年~95年の日清戦争前後に急増した。それが運行密度を上昇させ、発着に求められる時間精度を急速に高くしたと考えられる。

運行頻度と並んで重要なのは、連絡輸送の問題である。複数の輸送機関を乗り継ぐ場合、発着時間がずれると目的地には着けない。乗り継ぎ回数が増えるほど、正確性への要求は厳しさを増す。図表の鉄道の取扱高の増加ぶりと、連帯(乗り継ぎ)輸送の比率の増加を見れば、その要求の高まりは推して知るべしだ。

なかでも1889年の東海道線の全線開通は、官設鉄道と私設鉄道との連帯輸送を盛んにし、定時運行の必要性を増大させた。そして1900年前後になると、利用者の側が列車の遅延を厳しく批判するようになってきた。