「結果がでないから、どんどん集中できる」
日亜化学は現会長の小川信雄(当時 編集部注)が1956年、創業。電球の内側に塗る蛍光体の明るさを増す材料を売り出して以来、光に関する商売一筋でやってきた。営業が目を付けたのは黄緑のLEDである。
「最初の半年は金が出るんです。周りの人間も『中村、何始めたんや』と興味津々でね。そのうち誰も見向かなくなる。すると、集中できる。結果が出ないから、どんどん集中できる。朝から晩まで、そのことばかり考える。どん底までいくと、ある日、ポコッとアイデアが出る。だいたい3、4年がんばれば、どん底から這い上がれました」
半導体を作るには、さまざまな材料を反応させる電気炉が要る。買ってきた炉はそのままでは役に立たない。金がないから、会社の中に転がっている部品や廃品を拾ってきては改良する。研究員というより、町工場の職工である。煉瓦を組み立てる。ステンレスを溶接する。石英やカーボンを切断する。断熱材を組み合わせてヒーターに巻く。電気配線はもちろん、ガラス細工までやった。温度が2000℃近くになる酸水素バーナー用のボンベを1日4、5本使い、汗びっしょりになった。
月に2、3度は爆発事故を起こした。石英の筒を真空にして温度を上げ、中の燐と他の物質を反応させる。ところが温度が上がりすぎたり、空気が入り込んだりすると、燐に引火して石英が炸裂する。100メートル離れた駐車場にまで届く大音響がして、部屋の中は真っ白になる。石英は肌に突き刺さるから危険きわまりない。そろそろ爆発するだろうという勘が働くから、ついたてを立てておく。「中村、生きてるか」と皆が走り寄ると、白い粉を被った本人が煙の中からいつもぼんやりと姿を現した。
たいした製品はできなかったが、本職も舌を巻くほどの技術を身につけた。とりわけ溶接技術では神業とまで言われるようになった。これがのちに物を言うのである。