いわば芸術家的な野心家だったがゆえに、官兵衛は九州征伐を猛然と進めていたものの、「関ヶ原」後、「もう合戦は終わったから、やめなさい」と家康に言われ、さっと手を引いた。何が何でもという執念がある武将なら対応は恐らく異なるものになっていただろう。

家康と官兵衛。家康は、信長や秀吉と同じように、頭のキレる官兵衛をかねてより警戒していたといわれる。その証拠に、家康の「関ヶ原」後の態度がある。家康は自分の東軍側について活躍した官兵衛の息子・長政には筑前福岡52万5000石を与えたが、官兵衛には何の恩賞も与えなかったのだ。

家康は官兵衛に恩賞を与えず

九州一円は西軍・石田三成を味方する勢力に占められており、官兵衛はそれらの多くを駆逐した形になったが、家康はそれを論功行賞に値する行為ではなく、むしろ官兵衛の腹に「企みあっての行動」と見て取ったのだ。

家康はなぜ、官兵衛をそれほど恐れていたのだろうか。様々な歴史資料に目を通し検証した火坂さんに分析いただこう。

官兵衛の有名な言葉に「草履片々、木履(ぼくり)片々」がある。木履とは下駄のこと。片方は草履で片方は下駄。そんなちぐはぐな格好でも走り出さなければならないときがある、という意味が込められている。イザというときは一切の躊躇なく一気呵成に行動することのメリットを熟知し、これまでにも実際に実行している官兵衛のことを家康は警戒していないはずがない。

火坂さんはこう語る。

「かつて信長が討たれたときに、官兵衛は秀吉に『私がよく申し上げている“草履片々、木履片々”というのは、まさに今このときのことです』と言っています。機を逃したらいけませんと、進言するわけです。そして、信長様の弔い合戦をする! と将兵たちに呼びかけて、一気にみなの士気を鼓舞します。何をしたかといえば、蔵の金や米をブワーッと放出して、『しっかり飲み食いして、明日からよろしく頼むぞ』とやった。家臣たちの心をわし掴みにしたのです。実は、家康が天下を取った関ヶ原の戦いのときも、これと同じことを官兵衛は九州でやっています。中津城の蔵の金を全部使って浪人や農民などでにわか軍団をつくりました。『腕に覚えのある者、銭が欲しい者、功名を上げたい者は集え』と。普段は吝嗇家、まあ大変なケチだといわれていましたが、大事な場面になると盛大に活きた金の使い方をするんです。ばくちのできない者に勝利はないと言っていましたし、『金銀も用ふべき事に用ひずは、石瓦に同じ』というのが官兵衛のモットーでした」

機を見るに敏――。火坂さんはこうした躊躇のない行動で人を動かす力を持つ官兵衛を知るにあたり、ある西洋の諺を思い出したという。それは、「運は前髪で掴め」だ。