第5戦を落とし、流れが変わることを恐れた

中日が日本シリーズを制したのは、1954年。“魔術師”と呼ばれた三原脩監督と豪打を誇る西鉄に対し、シーズンで32勝も挙げた杉下茂が、伝家の宝刀・フォークボールを駆使し、3試合で完投し、日本一になったのが最後であった。

以来、74年には与那嶺要、82年には近藤貞雄、88年と99年には星野仙一、04年と06年には落合が監督として日本一に挑んだが、いずれもはたせず、53年の歳月が流れたのである。

落合は過去の経験則に基づき、第5戦を落とし、流れが変わることを恐れた。移動日を挟み、第6戦、第7戦は敵地だった。

「札幌に戻った2試合も落としてしまう可能性が大きい」

危険を感じた落合は、石橋を叩いて渡ったのである。

中日のバッテリーチーフコーチである森繁和も、著書『参謀』で山井降板のいきさつにふれている。

<……5回裏に、ちょっとしたことに気づいていた。山井が手袋をして、打席に入る準備をしている姿をパッと見たら、ちょうどユニホームのモモのあたりに、血がついているのがチラッと見えたのだ>

森は7回表が終了すると、落合に耳打ちした。

「山井はもしかしたら、終わるかもしれませんよ」
「え?」
「ちょっとマメがね、たぶん潰れていて、ユニホームにかなり血が付きだしているから」
「あ、そうか。じゃあ大丈夫か、リリーフは」
「いや、もう岩瀬は8回からでも行ける準備はさせていますから」

森は8回表に山井がランナーを1人でも出したら岩瀬に代えるつもりだったが、3人で片付け、ベンチに戻ってきた。

<私は本人に聞いた。
「どうするんだ?」
「岩瀬さんでお願いします」
その一言を聞いたときに、私は安心した……>(『参謀』)