日本で闘えないなら、難しい

また現地語がよくわかり、マネジメントもできる日本人の採用もそれほど難しいことではない。30年前、40年前に進出した大企業の現地工場に長く勤務してリタイアした人物たちが、70歳くらいになってもはつらつとして働いている。彼らをリクルートする方法も、現地のフリーペーパーなどをみればわかるが、口コミも盛んで、元トヨタ、元いすゞ、元パナソニックといった企業別のリクルーターもいたりする。

以上のようなことに同時に取り組んでいくことが、マーケットリサーチにもつながるのだが、仕事で大切なのは、まず日本工場のもっとも易しい仕事をもってきて(つまり日本本社の下請けになる)始めることが大切だ。

ただ、留意しなければならないのは、「日本本社の強化」である。「日本では商売がしにくいから……」という発想でスタートすると失敗する。日本本社(工場)がモデルであり続けることが経営の要件だ。日本のマーケットで闘うことのできない会社は、海外ではなお闘うことはできない。

とくに製品企画、研究開発、生産設備の構想、各種の要素技術の集約、実験・試作…といったことは、まだ日本でしかできない。取引先との関係管理もしかりである。日本国内での技術的なことを含めた取引企業との情報交換は重要な「経営資源」である。

もっともこの辺が難しいのは「電機関連」である。とくにエレクトロニクスを中心とした「画面をもった商品(ケータイやテレビ、デジカメといった)」をもつ家電系は、近年かつての「協力会」が崩壊しつつある。その結果、生じているのは「知恵を集める仕組み」の喪失である。かつて完成品(最終財)メーカーと協力メーカーの関係は「協力会」によって、毛細管のようにつながっていた。それは技術だけではなく、人間関係や各種の情報も含まれていた。いったん喪ったものを取り返すのは難しい。

しかしアセアンを歩いていると、新しいタイプのネットワークができつつある。おそらくマーケットの成長が著しく、従って新しい企業間の出会いを中心とする、新しい動きがどんどん出てくるからだろう。

中沢孝夫(なかざわ・たかお)●福山大学経済学部教授。1944年、群馬県生まれ。高校卒業後は郵便局に勤務。全国逓信労働組合本部勤務を経て立教大学法学部に入学し、93年に卒業。姫路工業大学(現兵庫県立大学)環境人間学部教授、福井県立大学経済学部教授などを経て、2014年より現職。中小企業経営論、ものづくり論、地域経済論などを専門とする。社団法人経営研究所シニアフェローを兼務。主な著書に『中小企業新時代』『グローバル化と中小企業』『中小企業は進化する』『中小企業の底力』など多数。
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