秘書となる経緯はこうだ。
「政治といっても、誰も知っている人はいない。大学の就職課でOB会の事務局長を紹介してもらい、その人が法政大OBの中村梅吉さん(元衆議院議長)の秘書につないでくれた。中村さんは引退という話になり、同じ中曽根派の小此木さんの事務所に。その前に74年の参院選で東京の自民党候補の選挙を手伝った。朝から晩まで頑張った。水を得た魚じゃないけど、探し求めていたのはこれだと思った」
菅は26歳のとき、徒手空拳で未知の世界に飛び込んだ。小此木事務所ではもちろん末席である。菅の秘書生活は11年に及んだが、最初の2年は小此木の秘書のまま、神奈川県議の梅沢健治(元自民党神奈川県連会長)に預けられた。梅沢が思い出を語る。
「言われたことは徹底してやる。本当に自己犠牲ができる人で、滅私奉公という言葉が一番、似合う。嘘をつかない。それに聞き役がうまい。人の心をつかむから、世情を見るのも早い」
83年12月、小此木が中曽根内閣の通産相となった。菅は半年後に大臣秘書官に起用された。外遊に同行してはじめて外国も体験した。「日本はこんな国だと教えてくれた人です。政治の視野を広げ、目覚めさせてくれた」と、菅は振り返る。
秘書になったときは、市議や県議は手が届かない遠い存在だと思った。だが、何足も靴を履き潰して歩き回った秘書生活で、確実にファンが増えているという手応えがあった。
87年4月に小此木の選挙区の横浜市西区から市議選に出馬した。「農家の長男」にとっては、秋田との決別は苦しい選択だったが、望郷の思いを断ち切った。一発で当選を果たして政治家人生に踏み出した。
1年生市議なのに、すぐに異彩を放ち始めた。同じ自民党の市議で1期先輩の田野井一雄(元横浜市議会議長)がその場面を述懐する。
「すごいと思ったのは、長老支配に対して平気でやり合う。議長を決めるときなどに、長老が『こうしろ』と言うと、菅さんが『大先輩、それはおかしいじゃないですか。みんなの総意で決めるべき』と。未来に責任を持ち、ぶれない。『意志あるところ道あり』という彼の姿勢を見てきた」