「脱派閥」と「世襲打破」を唱える菅義偉官房長官は自民党でも異色の存在だった。派閥を渡り歩き、安倍政権を支える官房長官に駆け上がった政治家の力の源泉を探る。
(※第1回はこちら http://president.jp/articles/-/12601)
「渡り鳥なんて気はまったくない」
国会に出た菅の行動が初めて注目を集めたのは、98年7月、橋本首相退陣後の自民党総裁選であった。
小渕派の小渕と梶山、それに小泉純一郎(後に首相)が名乗りを上げる。小渕派で菅と佐藤信二(元運輸相)の2人が梶山支持を表明した。派の実力者だった野中広務(後に官房長官)が「菅だけは許さない」と激怒したが、ひるまない。梶山とともに小渕派を離脱し、加藤派に移った。
首相は小渕を経て森喜朗に代わる。森内閣の支持率低落に危機感を抱いた加藤紘一元幹事長が森内閣打倒に動いた。2000年11月、野党提出の内閣不信任決議案の採決で賛成の構えを見せた。いわゆる「加藤の乱」だ。
最終的に加藤は欠席戦術に転じ、森首相は生き延びるが、菅は森打倒の急先鋒だった。自民党の平沢勝栄が述べる。
「あのとき、森内閣で自民党はどんどん衰退の道をたどった。菅さんの危機感はすごかった。先を見て危機感を持ち、なんとかしなければと思うのは誰でも同じだけど、彼はすぐに行動に移す。いまのままの自民党で大丈夫かという気持ちをいつも持っている」
このとき、安倍は森内閣の官房副長官だった。まだ菅との交流は始まっていないが、反対陣営から闘いぶりを見て名前を記憶に留めたのではないか。
菅はその後、加藤派の分裂で反加藤グループの堀内派に参加する。古賀派を経て、09年に無派閥になった。
一方、自民党総裁選では06年は安倍を擁立し、07年と08年は麻生太郎(元首相。現副総理兼財務相)の推薦人となる。09年は河野太郎(現自民党副幹事長)を支持した。
自民党には、派閥や支持するリーダーを次々と取り替え、渡り歩く「渡り鳥」と陰口を言う人もいる。だが、菅は「渡り鳥なんて気はまったくない。私はずっと派閥で政治をやるべきでないという考え方。政治家は国民の負託を受けている。総裁は自分の意思で決めるべき」と歯牙にもかけない。
市議出身の菅は、地方自治の現場で国の行政の厚い壁と奮闘したのが政治の原点と強調する。一方で、叩き上げらしく、世襲横行を自民党政治衰弱化の要因に挙げ、世襲政治打破を叫び続けてきた。脱派閥も菅の看板だ。