小泉内閣時代の頃から次第に自民党改革派の都市型議員の一人として台頭する。05年11月、小泉首相は内閣改造を行い、経済財政担当相だった竹中を総務相に回した。そのとき菅は竹中の下で総務副大臣に起用された。
菅の仕事ぶりを竹中が解説した。
「当時、私は郵政改革の仕上げ、通信と放送の融合に専念したいと思い、伏魔殿のような総務省の内部の管理は基本的に菅さんにお願いしたい、人事権も含めて全部見てもらいたい、と言った。菅さんは国会答弁では参謀的に大臣を立てる答弁を行い、内部のガバナンスではトップとしてやってくれた。腕力は物凄いから、見事に統率した」
小泉首相は06年9月の退陣を明言する。官房長官の安倍がポスト小泉に名乗りを上げた。
安倍との交流は、その4年前の02年、安倍が小泉内閣の官房副長官のときからだ。きっかけは北朝鮮の貨客船「万景峰号」の入港禁止問題だった。不審船の入港を止める法律がなかったため、菅は自民党の総務会で「自立した国は少なくとも入港を止める法律をつくるべきだ」と強く主張した。
90年代後半から拉致問題に取り組んできた安倍は、菅の発言を知って声をかけ、「全面的に協力したい」と申し出た。菅は「国家観があり、非常に魅力的だった。こういう人をいつか総理大臣に、と思った」と言う。
「負けそうで負けない」菅戦法
ポスト小泉の総裁選が近づき、チャンス到来と見た。菅は安倍擁立の原動力となる再チャレンジ支援議員連盟の結成の中心メンバーとなった。議連の事務局長を務めた梶山弘志が語る。
「菅さんの下で働きましたが、みなさん、一国一城の主ですから、いろいろなことを言う。それを収斂させていくには、しっかり物事を決められる剛腕が必要です。『菅ちゃんが言うなら仕方ない』と先輩方も言っていた。段階を経て最後に盛り上がる形をつくるという段取りにはとくに長けていた」
安倍は06年9月、総裁選を制して第一次内閣を発足させる。菅はそのまま竹中の後任の総務相に昇格した。