同時代の作家が残した証言

芥川龍之介は滝田の追憶記を、こう書き出している。

「滝田君はいつも肥っていた。のみならずいつも赤い顔をしていた。夏目先生の滝田君を金太郎と呼ばれたのも当らぬことはない。」

金時は、伝説では金太郎が成人してからの名である。夏目先生とは文豪・夏目漱石だ。漱石の目にも、燕楽軒で「金時さん」とあだ名した人の目にも、同じ昔話の人物が浮かんでいたらしい。

では滝田は、給仕女の千代をどう見ていたか。千代の側ではなく滝田の側に、二つの証言が残っている。

一つは作家・室生犀星の回想「黄金の針」だ。犀星の家に原稿の相談に来た滝田が、こう話したという。

「本郷のえんらく軒という西洋料理店に、藤村千代という女性が勤めているが、話してみると小説が書けるらしく、今夜も飯を食いに行くが書けたら書かして見る心算だ」

千代は岩国にいたころから同人誌に書いていて、東京に来てからはいっそう書くようになっていた。大正8(1919)年7月には、日刊紙『万朝報』が毎週募集する懸賞短編に「習作」を送り、選外ながら当選作に次ぐ作品と評価された。犀星が滝田と初めて会ったのも、同じ年の7月である。犀星の記憶どおりなら、この会話はそれより後のことになる。

室生犀星
室生犀星(写真=角川書店「昭和文学全集39巻(1954年6月発行)」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

本当に編集者を追いかけたのか

もう一つは、滝田の二女・西村春江が『中央公論』1985年7月号に寄せた回想だ。「宇野千代さんのこと」という一節に、父に連れられてアイスクリームやソーダ水を飲みに行った燕楽軒で、袂から原稿を出す給仕女を見たとある。

「ここのウェートレスというのでしょうか、きれいなお姉さんが父に「中央公論の滝田さんですね、これをお願いします」と袂から丸めた原稿を渡していました。父はこれを読み、なかなか才能があると認めたようです。この出会いがきっかけとなり、それから作家として世に出たのが今では大作家の宇野千代さんです。」

春江は当時10歳前後で、これは六十数年後の回想である。信憑性がどこまであるかわからないが、もっとも、80代半ばで書かれた千代の自伝も、長い年月を経た回想である点は同じだ。

つまり、描かれているのは、自伝と正反対の光景である。自伝の給仕女は客の名前を知らず、客は一言も口をきかなかった。娘が見た給仕女は、相手が『中央公論』の滝田だと知っていて、袂に原稿を忍ばせていた。ドラマの珠が店を出る黒崎を追いかけて原稿を差し出す場面は、自伝よりも、滝田の娘の記憶に近い。

ドラマの黒崎は原稿を「稚拙。つまらん」と突き返したあと、編集部で「油断してると無邪気に心をえぐりに来る瞬間があった」と漏らす。