芥川龍之介の姿は見たが…

話は少しさかのぼる。大正6(1917)年9月、19歳の千代は、元夫の弟・藤村忠と上京した。忠は東京帝国大学に籍を置いただけで役所に勤め、千代は雑誌社の事務員や家庭教師として働いた。刑部芳則の評伝『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』によれば、実業之日本社の会計係の月給は13円(この頃の日雇労働者の日当が1円前後)。生活は楽ではなく、質屋通いが続いた。

燕楽軒は、大正7年5月に開業した高級店である。千代の仕事の給仕女は料理を運ぶだけで、客のコップにビールを注ぐことも禁じられていた。千代は後年、略歴に「女給」と書かれるたびに訂正したくなると書いている。

「給仕女で、女給ではない、などと、略歴を書かれるたびに、それを訂正したくなるのも、私の自尊心か。」

給仕女として働いた18日の間に、滝田に連れられて文士たちも来た。

「あれは芥川龍之介、あれは久米正雄と、その頃の私でも、容易に見当のつく文士たちが、瀧田樗陰につれられて店へ来ることがあった。」

東京で小説を執筆中の芥川龍之介
東京で小説を執筆中の芥川龍之介(写真=『侏儒の言葉』/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

自伝のこの箇所に、芥川や久米から励まされたという話は出てこない。ドラマで珠を励ます、芥川を思わせる作家・秋山格之介(演・高良健吾)とは、描かれ方が違う。

作家・宇野を見出した名編集者の素顔

では、黙って五十銭玉を置いていった男は、どんな編集者だったのか。中央公論社の社員だった作家・杉森久英の評伝『滝田樗陰』に、人力車の話がある。

滝田は原稿の依頼に、人力車で作家を訪ねた。はじめは雇った車、のちには定紋入りの自家用の人力車で、東京じゅうを飛び回った。昭和14年に入社した杉森は、何人もの老大家からこう聞かされている。

「滝田樗陰の人力車がはじめてうちの前にとまったときの嬉しさは、わすれられないね」

無名作家の門に人力車が止まれば、『中央公論』という檜舞台に出る日が来たということだった。大げさな話ではなく、これまでの無名青年が明日から文壇の輝ける星になるのである。

人力車は、原稿の催促にも使われた。谷崎潤一郎は雑誌『改造』が創刊されるまでの自分の創作はほとんど『中央公論』に載ったと書き、滝田の催促を「非常に巧妙」だったと振り返っている。

「別にくどくどしゃべるのでなく、門口に俥を待たしたまま『御免』と云って玄関に現われる、そして、土間に立ちながら忙しそうに二言三言云うだけで、五分か十分で帰るのだが、それが一種の気合とでも云うのか、実にききめがあった。いやだと思っても、あの赭ら顔のはち切れそうな様子を見ると、どうしても断り切れなかった。」

谷崎は滝田に「僕は君の顔を見ると、まるで試験が来た様な気がする」とも言ったことがあるという。