誰にでも50銭をばらまく
学生のまま『中央公論』の編集者になった滝田には、固定給のほかに、雑誌が一冊売れるごとに歩合が入った。部数を伸ばした滝田は、大正8(1919)年には、歩合だけで月々2千円を取っていた(大正9年の内閣総理大臣の月給が1千円である)。百円札がめったに庶民の手に入らなかった時代である。その金の使い方が、また豪快だった。
人力車を曳いた善さんという車夫には、「よく駆けたといっては五十銭、エラかったろうといっては五十銭」と、日に何回もチップをやった。夜の11時、12時まで乗り回したから、善さんはやがて病に倒れる。仲間の車夫が言った。
「とうとう滝田さんに曳き殺されましたよ」
両国橋のたもとでは浮浪者に五十銭を渡し、「旦那、こりゃ五十銭です。おまちがえじゃないですか」と追いすがられると、「いいんだいいんだ、取っときたまえ」。晩年、病床で背中を揉んでくれた二女の春江にも、五十銭を出して「労働は神聖だから貯金しなさい」と渡した。
五十銭玉は、千代の席にだけ置かれたのではなかった。車夫にも浮浪者にも実の娘にも、滝田はこの銀貨をぽんと分け隔てなく渡して歩いていた。毎日もらったとすれば、18日で9円。千代が実業之日本社で働いていたときの月給は、13円であることを考えるとかなりの額である。
口癖は「しかしだね」
千代の席で一言も口をきかなかった男は、ほかの席では、黙っていられない男だった。
部下の興味深い回想がある。編集会議が終わると、滝田は部下を本郷通りのフランス料理店・鉢の木へ連れて行き、昼食をおごった。部下が原稿をもらってくると待ちかまえてその場で読み、「これは、君、傑作だよ」と声に出して読んで聞かせる。
部下が生返事をすると、水蜜桃や西瓜を買って東大構内の芝生に座らせ、「しかしだね、君たちにどうしてあの小説がわからないのかなあ」。それでも部下が賛成しないとなれば諦めそうだが、滝田は違う。
「樗陰はもう居ても立ってもいられなくなって、またもやぶらぶら歩き出し、本郷三丁目の近くにあった燕楽軒に入って、一同に珍しい洋酒や、豚の尻尾、牛の舌などの高級料理をさんざん御馳走したのち、
『しかしだね……』
と、またしても先ほどの小説の話をもち出すのであった。」
部下たちはやがて、燕楽軒をおごらせるために、わざと反対を唱えるようになったという。

