千代は日比谷の出版社に勤める

上京直後に千代は、日比谷の実業之日本社という出版社の会計係を月給13円で勤めた。湯島から電車に乗って通勤した。最初はお金がなくて、露店の八百屋で一山3銭の屑蓮れんこんを買って、毎日食べていたという。昼の弁当にも入れていたが、あるとき仕出し屋の40銭の鰻うなぎを注文したところ、それが病みつきになり、毎日注文するようになった。

昼食の仕出し代は給料から天引きだったため、翌月は電車の回数券を買う金もなくなり、日比谷まで歩かなければならなかったという。

学生の夫を支える質素な暮らし

このときのことを千代は回想して、「自分のことを貧乏とも可哀そうとも思ったことはないのでした」と書いている。しかし、「お金がなくて電車にも乗れない」ようになったのは、月給が底をつくほど鰻を食べたのだから仕方がない。忠も家庭教師の仕事をしたが、学校の授業時間外となると、稼ぎにも限りがあった。また学業と仕事との両立も難しかっただろう。千代は学生という立場で稼ぎの乏とぼしい忠を助けるために仕事に出たはずなのに、これには忠も困っただろうことが察せられる。

44歳ごろの宇野千代
写真提供=株式会社宇野千代
昭和16年、44歳ごろの宇野千代、小石川台町にて(株式会社宇野千代提供)

こうした仕事をしていた間には、女優と歌手になる夢を見たこともあった。千代の憧れの女優は松井須磨子であり、部屋の壁には彼女の写真を貼っていた。「奴やっこさんの踊りを習いに行ったくらいで、あの松井須磨子のような偉い女優さんになれるでしょうか」と後年に懐かしんでいる(『私のお化粧人生史』)。

作家ではなく女優になりたかった

大正3年の「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月、相馬御風、作曲:中山晋平)は、松井の歌声で流行したが、千代の愛唱歌であった。この曲は、劇団芸術座の第三回目の公演『復活』の劇中歌として作られた。松井は、女優としても歌手としても、全国的に人気があった。

千代は女優になりたいと思っていたため、日曜日に団子坂下の踊りの師匠のところに通い、日本舞踊の稽古に励んだりした。そのようなときに「女優募集。新時代の芸術家たらんとする若き人は来きたれ。日給八十銭支給、すぐその日から採用す。面会は西巣鴨一丁目、吉村写真館」という新聞広告を目にした。写真館に行くと、次回の撮影日時を伝えられた。千代は撮影日に写真館に向かうときに、「これが女優さんになる首途かどでの場所」だと感じたという(『私のお化粧人生史』)。

松井須磨子
酔芙蓉著『松井須磨子:新比翼塚』(共成会出版部)、大正8年、国立国会図書館デジタルコレクション