女優の選考会にまで参加したが…
写真館には女優志願者が7名ほどいた。この日の写真撮影は、近所の杜の原っぱで「杜のお姫さま」と題して行われたもので、お姫様役は女優の梅村蓉子であった。梅村は大正11年(1922)に松竹蒲田撮影所に入社し、翌12年の『散りにし花』で銀幕デビューする。まだ映画女優になる前の時代であった。
千代たちは蝶の衣装を着て、梅村の回りでポーズを取らされた。ところが、千代はズロース(パンツ)を穿いておらず、また衣装が透けるように薄いため、野外での着替えに手間取った。そして、赤い腰巻の上にそれをつけたため、他が白い蝶なのに自分だけ赤い蝶になってしまったという。
映画『足にさはつた女』(1926年)。左から岡田時彦、梅村蓉子、島耕二。『日本映画の歴史』より。Wikimedia Commons
オペラ歌手の三浦環を目指していた
こうした苦い体験をして、次回以降の撮影には臨まず、女優の夢も諦めてしまう。また、昭和59年(1984)1月には「三浦環の片鱗」(『群像』1984年1月号)という文章のなかで、この頃に声楽家の三浦環のような歌手になることを夢見ていたともいう。三浦の歌唱で流行した「恋はやさし野辺の花よ」を愛唱していたとも回想している。
千代は「声がとてもよかったの。それでね、畠へ出てね、大きな声で歌うたって、自分の声に自分が聞きほれてね、いい声だなあと思ってね。これは、三浦環ってのがそのころあれでしたから、三浦環とおんなじになろうと思ってね、歌うたいになるつもりでね、東京へ出てきたの」と語っている(『新編 黒柳徹子の一生懸命対談』)。松井と三浦の歌唱に憧れたわけだが、歌手の道も女優の夢とともに消えたのであった。
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