忠が下宿する京都・知恩院で同棲
京都では一足先に戻っていた忠が千代を迎えた。忠は着物に袴姿であったが、知恩院の間借りしている六畳一間の部屋には、三高の制帽と黒のマントが壁にかけてあった。黒のマントは制服としては定められていなかったが、高等学校の生徒を示す象徴といえる。その他には机、火鉢、本箱が置かれているくらいの質素な部屋であった。
京都の同棲生活では、常に貧しさが待っていた。その原因は、岩国地方裁判所で勤務していた忠の父が退職し、年金生活を迎えたため、忠への学費を含む生活費の送金が途絶えがちになったことによる。忠は三高の授業ですぐに使わない教科書を質草に入れたり、本箱を売りに出したりした。千代は生活費を稼ぐため、中国人の家事手伝いに出たが、そこに向かうときは電車に乗らず、歩いて行った。千代は忠が卒業して東京に行くまで、京都で働き詰めの日々を送った。
東京帝大に合格、千代も共に上京
藤村忠は千代の支えによって、大正6年9月に京都三高を卒業し、東京帝国大学法学部に入学することが決まった。そのため、忠と千代は東京へ行くこととなる。二人が向かったのは、本郷湯島天神の裏にある兄亮一の下宿であった。亮一は浅草の寄席で働き、そのお茶汲みの女と同棲していた。僅か10日間とはいえ、結婚式まで挙げた千代と亮一の再会であった。お互いに恋愛感情などあるはずもなく、数日後に亮一と女はどこかへ出て行ってしまう。そして残された忠と千代もそこを後にして、小石川駕籠町の女髪結の店の2階に移った。
忠の兄で千代の最初の夫は病死
湯島天神の下宿で別れてから半年後に亮一は肺結核によって死去する。千代と忠は見舞いのため、伊豆七島の一つである八丈島まで行った。八丈島は結核患者の療養先として最適な場所と見なされていた。伊豆七島のなかでも大島は、東京から一番近い場所にあり、明治22年(1889)に渋沢栄一が東京湾汽船を設立し、昭和戦前期には「大島航路」と呼ばれ、観光客で賑わっていた。それに対して一番遠距離にある八丈島の観光化は遅れ、江戸時代に罪人が運ばれた頃と大差のない光景が広がっていた。

