「命に別状がない」とは言っても
「よく報道などで『命に別状はない』と伝えられますが、クマ外傷はそのような言葉で片づけられるような軽いものではありません」と中永さんは言う。
一般に、激しいケガを負う事故といえば交通事故が思い浮かぶが、その場合は全身打撲や内臓出血、骨折などが主だ。一方、クマ外傷の場合は打撲や骨折だけでなく、クマが鋭利な10本の爪で攻撃してくるため皮膚が引き裂かれる裂傷をともなう。クマの爪は鋭く大きいため、傷が体の深部に達することもある。
「鋭利な爪のついた前足で強く殴られることで、皮膚が引き裂かれたり、骨折したり、体の部位が吹き飛ばされたりします。しかもスパッとキレイに切れるわけではなく、グシャっとした傷口になるため、異物が混入することも少なくありません」
中永さんが担当した中には、洗浄した傷口からクマの爪が出てきたケースもあるという。それほどまでに全力で、前肢を叩きつけてくることがわかる。クマも命がけなのだ。そして深く複雑な傷は、縫合も困難だ。手術は1度では済まず、繰り返し行われる場合もある。冒頭のケースは退院までに数カ月かかった。
「重症の場合は治療に長期間かかるので、長く苦痛にさらされるだけでなく、治療費もかさみます。仕事を休むことになれば減収につながることもあり、金銭的負担がさらに大きくなります。秋田県をはじめ一部の自治体では、クマ被害に対して見舞金が出る制度がありますが、金額的には全然足りません」と中永さんは話す。
さらに無事に退院できても、顔面神経麻痺や開口障害、失明、PTSDなどの後遺症が残るケースもあるという。命が助かったこと自体は素晴らしいが、それでいいということにはならないのだ。
どうしてクマは人間の顔を狙うのか
こうしたクマ外傷がもっとも多いのは、顔だということがわかっている。中永さんたちの調べによれば、なんと全症例の90%に顔面損傷があり、顔面骨骨折(9例)、眼球破裂による失明(3例)、頭蓋骨骨折・頭蓋内出血(1例)などの重篤な損傷が含まれていた。なぜ、クマは人間の顔を執拗に狙うのだろうか。
「クマは人間に対峙すると、自らを大きく見せるために後ろ足で立ち上がります。すると、前足の高さが大体100〜150cmくらいになるんです。その高さで、まずは腕を地面と水平に振って攻撃するため、ちょうど人の顔に当たります。多くの生き物の急所である首や頭を本能的に狙っている、ということもあるでしょう」と中永さんは話す。
顔はとても柔らかい部分だ。クマの強い力と鋭利な爪で攻撃されると、最初に述べたケースのように、たった一撃で肉がごっそりはぎ取られてしまうことになる。上半身は血流が良いので出血量も多くなり、気道が塞がって窒息したり、出血性ショックを起こしたりする恐れもあり、非常に危険だ。さらに複雑な作りをしているため再建が難しく、後遺症が残ると食事がしづらくなったり、唾液腺や涙腺の調節ができなくなったりして、QOLを著しく低下させてしまうのだ。


