※本稿は、杉谷和哉『エビデンスの罠 数字と物語に囚われない思考法』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
数字が感じさせる「冷たさ」「酷薄さ」
「一人の死は悲劇だが、数百人の死は統計に過ぎない」という有名な言葉がある。
個々人の人生が途絶え、その物語が終わるという悲劇に我々は思いを馳せることができるものの、その数が膨大になった時には、それらは表情を持たない統計数字の羅列になってしまうことをうまく言い表したフレーズだ。この言葉を発した人物については諸説あるのだが、独裁者や虐殺者の冷酷さを表す言葉として今日でもよく見かける。
数値が有するこの冷たさ、酷薄さを踏まえ、個々人の「語り」に注目して、その複雑さを取り出すアプローチをとった村上靖彦の『客観性の落とし穴』がそうであったように、「エビデンス」にしばしば対置されるのが「ナラティヴ」である。ここで言う「ナラティヴ」は主として個々人の体験に依拠しており、ある種のストーリーを有している。個々人の経験は明確な情報にはならないかもしれないが、そこには確かに顔の見える個々人の息遣いがある。
もちろん、幅広い人間に対処しなければならない公共政策は、マクロな統計数字に則る必要がある。個々の状況に応じた政策の機動的な対応は膨大なコストが必要で、現場への負担が限りなく大きくなるからである。時折、学会などで個々のケーススタディとして、そうした実践が報告されることがあるが、それらの多くは全国的な展開に適していない。
政策そのものがある種のナラティブ
ただし、障害者政策のように、個別ニーズを把握しなければならない政策領域も現実にあり、ナラティヴが政策において無用であるわけでは決してない。
それどころか、政策そのものがある種のストーリーラインを有したナラティヴであると見る立場すらある。単純化して言えば政策とは、ある特定の問題を解決するための手立てを指している。政策形成にあたっては、客観的なデータや根拠、政策の因果関係である「エビデンス」を活用した分析が必要とされているが、それを社会において実装する際に必要になるのがナラティヴである。
たとえば、富裕層への減税が、結果として経済全体を改善させ、富裕層でない社会層の人々も潤うという発想がある。「トリクルダウン理論」として知られるこの理屈は、シャンパンタワーに喩えられ、上のグラスに水を注げば、下に置いてあるグラスにも行き渡るというあらすじで描かれる。

