二度のピンチから「快適生活」に転進
1945年7月、大阪府・東大阪の町工場が並ぶ地域で生まれる。女3人、男5人の8人きょうだいの長男。府立布施高校で映画研究会へ入り、近くの5つの高校の映画好きを集めて東大阪映画研究部を結成。大阪市内の映画館で、多い月には30本以上も観た。社会性が豊かな作品や欧州映画が好きで、将来は映画監督になりたい、との夢を抱く。
だが、高校3年の夏に父ががんの手術を受け、翌年の7月に亡くなった。大学進学をあきらめ、父のプラスチック成型工場を継ぎ、19歳で代表者に就く。当時は、シャンプーの容器などをつくっていた。忙しいときや日曜日に手伝うこともあったから、機械や作業のことは多少は知っていたが、経営など何も知らず、「最初のピンチ」だった。
従業員が帰った後、深夜まで人で機械を動かし続ける。やがて、売り上げが伸びると、欲も出た。「このまま、下請け工場で終わりたくはない。何か、自前の製品を手がけたい」。目をつけたのが、養殖漁業用の浮きだ。プラスチックの応用は幅広いが、競争も厳しい。そこで、競合相手の少ない第一次産業、それも主流の農業ではなくて水産業、しかも養殖という限定した市場を狙う。「易勝者也」のスタートだ。
浮きは、三重県・英虞湾の真珠養殖業者に採用され、販路が広がっていく。71年4月、大山ブロー工業(現・アイリスオーヤマ)を設立して社長に就任。翌年、仙台工場を増設する。だが、ミニスカートの流行で、真珠を身に付ける女性が減る。真珠業界は打撃を受け、浮きも売れなくなるが、次に手がけた田植機向けの育苗箱でしのいだ。
だが、73年秋に起きた第一次石油危機が「第二のピンチ」を招く。当初は原油価格の高騰に備えたプラスチックの仮需が大量に発生した。だが、2年足らずで消えた。製品価格が急落する。このときだ、味方だと思った問屋が敵になったのは。蓄積は底をつき、倒産寸前に追い込まれる。工場を2つ維持することは困難となり、東大阪の本社工場を閉鎖し、本拠を仙台工場へ移す。150人になっていた社員の大半は、家族もあって仙台へはいけない。約7割の身内同然に、辞めてもらう。心底こたえ、「もう二度と、リストラをしてはいけない」と胸に誓う。
立て直しに、信用調査会社の140万社にも上る企業データを購入して、半年かけて読んで出した答えが「好不況に強いのは、いつの世も需要がある生活用品」だ。そこから新規参入先として選んだのが、冒頭で触れた園芸用品だった。
毎週月曜日に、商品開発会議を開く。新商品を提案する部署などから主任以上の約50人が集まる。年間1000件以上が諮られるから、1回平均は20件強。最後に、投資の可否を決める。それが経営者の最大の責務、と思う。大勢の前で提案を説明させるのは、みんなで情報を共有し、議論と決裁を「みえる化」するためだ。もう30年以上も続けており、会社のDNAになっている。
よく「行政は縦割りだ」という批判があるが、民間企業だって縦割りの固まりだ。各部署の面々を一堂に集め、議論させるのは、その弊害を排し、縦割り組織に横串が貫く狙いもある。結果、もめごとは減った。