次に、政治と経団連の関係に眼を転じてみよう。経団連は、戦後、政治との距離を適切に保つことで、要望の円滑な実現を図ってきた。というのも、日本の経済界は、戦前・戦中において、政治との癒着を深めた結果、GHQに戦争協力の責任を問われ、財閥解体を強いられ、経済団体についても自主的な解散を促された。こうした経験から、戦後は個別企業による政治献金を避け、特に高度成長期には、各社からの政治献金を、経団連が一旦まとめあげてから自民党に流すという仕組みを整えた。個別企業や業界との癒着が進まないシステムを形成したのである。
では、直接的な政治献金を行わずに、経団連はどうやって政治に自らの要望を実現させてきたのだろうか。
この点についても、歴代会長ごとに経団連の権勢を見比べることで、その論理と構造が見えてくる。
歴代会長のなかで、政治に対して強硬に要求を突きつけ、その実現を果たした人物としては、第2代の石坂泰三(東芝)、第4代の土光敏夫(東芝)、第8代の豊田章一郎(トヨタ自動車)が挙げられる。
石坂は戦後直後、東芝の労使紛争を解決した実績で知られ、それは企業協調的な労働組合運動を形成する一助となった。そうした自由主義を貫き通した実績を背景に、石坂は経団連会長として、貿易・為替の自由化、資本自由化を政府に強く迫った。
土光はその東芝が60年代半ばに再び経営危機に陥った際、その再建を果たした。経団連会長時代よりも、80年代に入り、第二次臨時行政調査会、臨時行政改革推進審議会の会長として、政府に睨みを効かせ、行革を迫った。
豊田はトヨタ自動車をグローバル企業に発展させた功績で知られ、90年代半ばの橋本龍太郎内閣に、「橋本六大改革」という構造改革を実行させた。
3人に共通しているのは、政治に頼らず、企業経営を成功させた結果、政府に対して経済界の利益を強く主張できたということである。これは、高度成長期の諸先進国で、労使対立を調整するために、労働者党政権が誕生して福祉国家政策が進められたことに比べれば、非常に特異な状態であった。