※首藤若菜『なぜ賃金は上がらないのか 日本経済30年の陥穽』(講談社現代新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
人手不足の業界ほど賃金が上がらない
厚生労働省「賃金構造基本統計調査」を用いて、産業別に直近数年間の名目賃金の上昇率を見ると、興味深い傾向が確認できる。
人手不足感が強いと指摘されるサービス業や介護・福祉などの分野では、賃金上昇率が相対的に低い水準にとどまっている。一方で、人手不足感がそれほど強くない業種のなかに、賃金上昇率が高い分野が存在する。
労働現場に目を向ければ、賃金が十分に上がらないために人材の確保や定着が進まず、人手不足が解消されない。その結果、現場の負担が増し、離職が進むことで、人手不足がさらに深刻化するという悪循環が生じている。人手不足は結果であると同時に、原因にもなっている。
この事実は、経済学が想定するほどには、現実の賃金や価格が市場メカニズムに即して柔軟に調整されていない可能性を示している。
日本では、人手が足りなくても、企業が容易に賃上げに踏み切れない状況が見られる。その背景には、賃金を引き上げる前提となる価格を引き上げにくい環境があるのではないだろうか。
日本で価格を引き上げにくい理由は、大きく2つに分けて考えることができる。第一に、社会的に不可欠であるがゆえに制度的に価格が抑えられている分野、第二に、市場競争のもとにありながら、その競争のあり方が価格引き上げを困難にしている分野である。
医療・介護、交通は賃金が上がらない
前者の代表的な分野として、医療や介護業界がある。医療や介護のサービス価格は市場で自由に決まるわけではない。診療報酬や介護報酬といった公定価格によって、価格水準が制度的に規定されている。
この仕組みのもとでは、需要が増え、人手不足が深刻化しても、事業者が自由に価格を引き上げることはできない。その結果、賃金を引き上げる余地は限られる。
価格が制度的・社会的に制約されている分野は他にも存在する。例えば、鉄道やバスなどの公共交通分野である。鉄道運賃は市場で自由に設定されるわけではなく、国の認可を前提とする制度のもとで決定されている。
人手不足が深刻化し、現場の負担が増しても、それが即座に運賃改定や賃金上昇につながるわけではない。この点で、交通分野は医療・介護と同様に、人手不足が、価格の見直しや引き上げを通じて、賃金に反映されにくい構造を抱えている。


