部下をだました卑劣な敵前逃亡
だが慶喜は、戦闘開始から3日後(1月6日)、大坂城から脱走して江戸へ逃亡したのである。朝敵になるのが嫌だったという。しかも、その逃げ方は驚くべき卑劣さであった。
この日の昼間に重臣たちを城の大広間に集め、「この上はどうすべきか」と問い、彼らが異口同音に「一刻も早く御出馬を。そうすれば兵の士気がふるい、薩長を討ち平らげるのはたやすいことです」と依願すると、慶喜は「よし、ただちに出馬する。お前たちはその用意をせよ」と公言した。
重臣たちは大いに喜び、それぞれ急ぎ持ち場へ戻っていった。このように部下をだましたうえで、夜になって会津藩主・松平容保など数人を誘い、大坂城からこっそり抜けだし、大坂湾から船で江戸へ逃亡したのである。
しかもこのさい、容保たちには、やる気もないのに、江戸での再起を約束していたというから、全く酷いものだ。
慶喜は江戸に帰り着くと、主戦派を退けて勝手に上野寛永寺で謹慎生活を始め、事後始末は、かつて自分が失脚させた勝海舟に押しつけた。なんとも身勝手である。
大将の敵前逃亡を知った旧幕臣や佐幕派の面々は、一気に戦意を失い、江戸へ向けて逃亡を始めたが、逃げる途中、多くが敵の襲撃を受け、命を落とした。哀れである。
慶喜は朝敵となり、追討されることになったが、勝海舟の奮闘で助命され、水戸藩で謹慎となった後、静岡藩(徳川家)に身柄を遷され、寺院の一室で蟄居した。
その後、許されたが、廃藩置県後も長年、慶喜は静岡を離れなかった。
維新後の慶喜を評価できる理由
大政奉還後は、過信や見通しの甘さでミスを連発して朝敵となった慶喜だったが、維新後、己の存在を消し続けたことは評価してもいいだろう。
廃藩置県、士族の乱、西南戦争、紀尾井坂の変、自由民権運動など、少なくても十数年間は政府存亡の危機がたびたび起こっている。もし最後の将軍である慶喜が反政府組織と手を結んで旧臣に檄を飛ばしたら、あるいは政府は転覆したかもしれない。
それだけの影響力を、慶喜はあえて封じたからである。


