なぜ260年続いた政権を返上したのか

それにしてもなぜ慶喜は、260年続いた江戸幕府の政権を朝廷に禅譲したのか。

1つは、同時期に倒幕派の岩倉具視や大久保利通の画策で、朝廷が倒幕の密勅を薩長に下そうとしていたからだ。

密勅は形式が整わぬ非公式のものだったが、これを盾に薩長は挙兵するつもりだった。つまり事態は切迫しており、おそらく慶喜もこの動きを察知して大政奉還を決断したのだろう。

聖徳記念館壁画「大政奉還」
聖徳記念館壁画「大政奉還」(1867年10月14日)(画像=明治神宮聖徳記念絵画館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

以前は、薩長倒幕派の機先を制するため、慶喜はわざと政権を投げ出したのだといわれた。いきなり政権を受け取っても朝廷はもてあまし、きっと徳川に泣きついてくるはず。

賢い慶喜ゆえ、そう計算したのだというのだ。ただ近年は、倒幕派との武力衝突を避けて内戦を回避するため、損得なしの独断だったとする説が有力だ。

実際、大政奉還を知った幕臣や佐幕派は仰天し、その決定に強く反発している。

断固辞退すべきだった将軍職

とはいえ慶喜は、新しく朝廷に生まれる新政権には参画しようと考えていた。おとなしく政権を譲ったわけだから、当然その資格はあると思ったのだ。

実際、急に政権を譲られた朝廷も閉口し、当面の間は徳川家にそのまま政務や外交を委ね、一方で諸大名に急ぎ上洛を命じた。今後の政治体制の在り方を決めようと考えたのである。

ところが、ほとんどの大名がさまざまな理由をつけて、なかなかやってこない。仕方なく朝廷は、慶喜の将軍職すらもそのままにした。

本来なら政権を返したわけだから、慶喜は断固将軍職は辞退すべきであった。それをしなかったのは、やはり自分が政権を担うべきだと考え直したのかもしれない。

そういった意味では考え方が甘かった。将軍を辞めたうえで朝廷を補佐する体制を取り、土佐藩や越前藩(福井県)をはじめ、中立的な諸藩を含めた雄藩連合政権を構築すべきだった。

ともあれ、大政奉還をおこなっても現状が全く変化しない中で、同年12月9日、いきなり朝廷でクーデターが勃発した。

同日朝、朝廷の会議が終わって摂政・関白や親徳川方の公家たちが退出すると、その場に残った公卿・三条実美、尾張(愛知県)藩主・徳川義勝、越前藩主・松平慶永らのもとに、岩倉具視が天皇の王政復古の勅書を携えて参内し、王政復古の大号令が発せられたのである。