戦う気まんまんの「討薩の表」

そもそも旧幕府軍を京都へ進撃させるにあたり、慶喜は部下に「討薩の表(薩摩藩を討伐するという弾劾書)」を持たせている。やむを得ず出兵を許したというなら、こんな戦う気まんまんの書を与えるのはおかしい。

むしろ、薩摩藩邸焼き打ちの実行犯への厳罰を約束し、自分の無関与を訴える書をもたせて朝廷(新政府)に送り出すべきだった。あるいは、自ら堂々と弁明のために京都へ行くべきだった。そうしていれば、たとえ鳥羽・伏見で武力衝突しても言い訳が立ち、慶喜が新政府の盟主になれた可能性はある。

というのは、旧幕府軍は鳥羽口と伏見口で薩長軍に差しとめられたさい、武装していたものの火縄に火をつけるなど戦闘態勢は取っていなかったからだ。

鳥羽伏見の戦い、森(長州)島(薩摩)山(土佐)政府軍の大勝利の図
鳥羽伏見の戦い、森(長州)島(薩摩)山(土佐)政府軍の大勝利の図(画像=Token World Ukiyoe/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

結局、薩長兵から仕掛けられ、応戦する形で戦闘の火蓋が切られているのだ。

つまり慶喜には、やむなく応戦したという言い訳ができたのである。しかも、開戦直後の段階では、武力対決の姿勢を見せているのは薩長の2藩だけで、諸藩は日和見を決め込んでいたうえ、朝廷の公家たちも動揺し、事を荒立てるのを嫌っていた。

薩長軍はわずかに5000というおごり

だが、慶喜はそうはせず「討薩の表」を持たせた。おそらく「薩長軍はわずかに5000、こちらには3倍の兵力がある。しかも関東から陸続と兵がはせ参じつつある。戦っても確実に勝てる」というおごりのもとで、慶喜は開戦を決意していたのだと思う。

ところが、鳥羽・伏見の戦いでは大敗を喫し、なおかつ、薩長側に錦の御旗(官軍のしるし)が与えられたことで、日和見していた藩のみならず、淀藩(京都府)や津藩(三重県)など味方も寝返り、怒濤のように旧幕府軍に攻めかかってきたのである。過信や見込みの甘さが、慶喜の人生を暗転させたわけだ。

けれどこの段階でも、難攻不落の大坂城に拠って徹底抗戦を宣言すれば、数週間後に関東中から大兵力が上坂し、新政府軍を撃破できる可能性はあった。