“担がれる人生”だったが、精神世界は豊かだった
最終的に官位は正三位権中納言如元まで上がっているので、親類衆の中ではそれなりの扱いを受けたと考えられる。
しかし、あるのは官職だけ、特に政権に影響力を持つことはなかった。そして、秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍に属したことで家康方から攻撃を受けて落城。その後は、高野山に退去し、1605年に26歳で死去することになった……。
と、教科書ではせいぜい清須会議で幼名が出るだけ。その後は、嫡流という看板を利用されるだけのパッとしない人生を送ったようにみえる秀信。しかし、別に陰鬱とした人生を送ったわけではなく、精神世界を豊かにすることを選んだ。
秀信が岐阜城に移った後のことだ。数人の家臣の影響によって、秀信はキリスト教に回心した。
これは、かなり危険な選択であった。
秀吉がバテレン追放令を出したのは1587年のことである。キリスト教の布教は禁じられ、宣教師は国外退去を命じられるようになっていた。しかも秀信は、その秀吉の「一族」として遇されている身だ。主君がキリスト教を禁じているのに、その庇護下にある人間が洗礼を受けるなど発覚すればただでは済まない。
にもかかわらず、秀信は受洗した。
秘密の洗礼「太閤様がこのことを知ったら…」
結城了悟『キリシタンになった大名』(キリシタン文化研究会、1986年)によれば、イエズス会の1595年の年報には、こう記されている。
ついに三法師殿は満足してキリスト信者になる決心をし、この教会で他の三人の家臣と一緒に洗礼を受けました。このことは現在のところ秘密にされています。それは、太閤様がこのことを知ったら再び迫害が燃え上がる危険があります。
「太閤様がこのことを知ったら」この一文に、すべてが凝縮されている。
名前を書き換えられ、系譜を書き換えられ、立場を書き換えられ続けた男が、秀吉に絶対に知られてはならない秘密を、自分の胸の中に持ったのである。
この報告を受けた宣教師たちの興奮は、相当なものだった。なにしろ信長の嫡孫が洗礼を受けたのだ。同じく結城によれば、ルイス・フロイスはこんなことまで書いている。
彼と少し話せば、誰でも彼の血統や父親を知らなくても、彼の容貌、言語、態度の品格から判断して、しかるべき大貴族の息子であることを推察し、日本人であることを知らなければドイツの貴族と思うほどでしょう。

