織田家の代表は信雄、血統上の本筋は三法師
……なるほど! と納得できるだろうか。たぶんできない。これは、実にややこしいことである。少し整理しよう。
清須会議から約4カ月後の天正10年(1582年)10月、秀吉は丹羽長秀・池田恒興とともに、信長の次男・信雄を織田家当主として擁立した。清須会議で後継者とされた三法師ではなく、成人した信雄が織田家を代表する立場になったのである。
この時点で三法師は、岐阜城の信孝のもとに置かれていた。しかし12月、秀吉に包囲された信孝は降伏。三法師は信雄の庇護の下、安土城の仮屋敷へ移された。
こうして織田家には、奇妙な二重構造が生まれた。実際に家を代表する当主は信雄。しかし、信長の嫡孫として血統上の本筋にいたのは三法師だった。つまり、成人した信雄が当面のあいだ織田家を率い、その背後に将来の嫡流である三法師が控える構造である。少なくとも表面上は、信雄が家を支えながら三法師の成長を待つ形にも見えた。
このまま信雄が、三法師を支える当主として振る舞っていれば、大きな問題は起こらなかったかもしれない。ところが、小牧・長久手の戦いは、その建前を完全に壊した。
秀吉の狙いは「織田一族の取り込み」
信雄は織田家当主の立場で徳川家康と組み、秀吉に戦いを挑んだ。三法師を当主に戻すためではない。自分自身が織田家の主人であり続けるための戦いだった。ところが信雄は、家康に相談することなく、単独で秀吉と講和してしまう。
この講和によって、信雄は名目上、織田家当主の座に残った。しかし、信長の後継者としての実権と権威を握ったのは秀吉だった。三法師が成長すれば織田家の主人になれるという可能性は、ここで事実上消えたのである。
その後、1590年、信雄は小田原征伐後の国替えを拒否し、秀吉によって改易された。織田家を代表する「当主」という政治的な看板まで失われた。
残ったのは秀信(幼名:三法師)が持つ「信長の嫡孫」という血筋だけだった。
しかしその血筋という看板も、小牧・長久手の時点ですでに有名無実になっていた。秀信はもはや秀吉の主人ではなく、秀吉に仕える立場となっていたのである。
しかも秀吉がやったのは、秀信をただの臣下にすることではなかった。織田嫡流を、自らの一族として丸ごと取り込むことだった。
天正16年(1588年)4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、秀信は従四位下行侍従に任官し、豊臣姓・羽柴名字を与えられた。この行幸での席次は侍従クラスの大名のうち前田利家や豊臣秀勝、結城秀康らに次ぐ五番目。まだ8歳にも満たない子どもが、これだけの地位を与えられている。秀吉は秀信を冷遇したのではない。一族として取り込むことに、それだけの価値を見いだしていたのだ。

