人生が良いものかどうかわからない

もちろん、人生には喜びもある。ベネターの議論に対しては、別の哲学者デイヴィッド・ブーニンによる批判もあり、この点については専門家の間でも議論が続いている。私自身は、人生が良いものか悪いものかは、最終的には「分からない」という立場だ。

小島和男『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎)
小島和男『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎)

しかし、「分からない」からこそ、子どもを産むことを「当然」視してはいけないのではないか。フィンランドの反出生主義者を自称する哲学者マッティ・ヘイリも、この不確実性を重視する。人生が良いものかどうか分からない以上、子どもを産むことは一種の「賭け」である。その賭けに負けた場合、苦しむのは生まれてきた子ども自身だ。だとすれば、リスクを回避するために、子どもを作らないという選択には、合理的な根拠がある。

繰り返すが、これは「絶対に作るな」という主張ではない。私が言いたいのは、子どもを作ることを「当然」視してはいけない、ということだ。子どもを作るかどうかは、生まれてくる子どもの人生に対する重大な責任を伴う決断なのである。

「持たない」と「持てない」

ここまで、子どもを「持たない」という選択について論じてきた。しかし、子どもを「持てない」という状況もある。この二つは区別されるべきだが、共通点もある。不妊に悩む人々がいる。子どもを望んでいるにもかかわらず、身体的な理由で子どもを持つことができない。その苦しみは、想像を絶するものがあるだろう。

ここで私が言いたいのは、「持たない」人も「持てない」人も、「産め」という社会的圧力に苦しめられているという点では共通している、ということだ。「持たない」人は「なぜ産まないのか」と問われ、「持てない」人は「なぜ産めないのか」と問われる。どちらも、「産んで当然」という前提のもとで、「普通ではない」存在として扱われる。

不妊治療は、心身ともに大きな負担を伴う。経済的な負担も大きい。それでも治療を続ける人が多いのは、「子どもを持つことが幸せ」という社会的な物語の力が、それだけ強いからだろう。しかし、不妊治療がうまくいかなかったとしても、子どもと暮らす方法はある。それが養子の制度だ。