最終的な決定権は女性にある
さらに押さえておかなければならないのは、子どもを「産む」ことの負担は、男女で決定的に異なるということだ。妊娠、つわり、出産の痛み、産後の身体的ダメージ、授乳。これらはすべて、女性の身体にのみ課せられる負担だ。男性は、生物学的には精子を提供するだけで「父親」になれる。
メキシコ先住民の出産方法の一つで、男性の睾丸に紐をくくりつけ、女性がその紐を、出産時の痛みに応じて強く引っ張ることで、二人で痛みを分かち合うアステカ式出産法を実施してみたところでこの事実に変わりはない。女性は出産時にだけ苦しいのではないことに鑑みると、アステカ式出産法とて、苦しみを分かち合うには全然足りないのだ。
この非対称性を考えれば、男性が「子どもがほしい」と言うことには、慎重さが求められる。基本、言わないでおいたほうが良い。それは、自分ではなくパートナーの身体に負担を負わせることを意味するからだ。ましてや、男性が女性に対して「産んでほしい」と圧力をかけることは、許されない。子どもを産むかどうかの最終的な決定権は、その負担を引き受ける女性の側にあるべきだ。
生まれてくる子ども側からの考察
出生奨励主義を疑うもう一つの視点は、生まれてくる子どもの側から考えることだ。
毎度お馴染みデイヴィッド・ベネターは、その著書『生まれてこないほうが良かった』の中で、出生には根本的な問題があると論じている。生まれてくる子どもは、自分が生まれることに同意できない。親は、子どもの同意なしに、子どもをこの世界に送り出す。これは、他のほとんどすべての行為とは異なる特殊な状況だ。
ベネターの議論の詳細は、拙著『反出生主義入門』に譲るが、ここで重要なのは、「生まれてくる子どもにとって、生まれてくることは良いことなのか」という問いを真剣に考えることだ。
人生には、必ず苦痛が含まれる。病気、怪我、失恋、挫折、孤独、そして死。どんなに恵まれた人生でも、苦痛を完全に避けることはできない。子どもを産むということは、その子どもに、こうした苦痛を経験させることを意味する。

