根底にある「出生奨励主義」を疑う

こうした圧力の根底にあるのは、「出生奨励主義(プロナタリズム)」と呼ばれる考え方だ。子どもを作ることは良いことであり、作らないことは悪いことである、という暗黙の前提。この前提は、あまりにも当然視されているため、疑問を持つこと自体が難しい。

しかし、なぜ子どもを作ることが「良いこと」なのだろうか。誰にとって良いことなのか。社会にとって? 親にとって? 生まれてくる子ども自身にとって? この問いを真剣に考えると、「子どもを作ることは良いこと」という前提は、それほど自明ではなくなる。

出生奨励主義は、しばしば「自然」や「本能」という言葉で正当化される。子どもを産み育てたいという欲求は、人間の自然な本能である。だから、子どもを持たないことは「不自然」である、と。

しかし、この議論には問題がある。まず、「自然」であることと「良い」ことは、同じではない。人間にはさまざまな「自然」な欲求がある。攻撃性も、嫉妬も、怠惰も、ある意味では「自然」だ。しかし、だからといって、それらを無条件に肯定するわけにはいかない。「自然だから良い」という議論は、論理的に成り立たない。

赤ちゃんの手とお母さんの手
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子どもを持ちたいのは本能なのか

次に、「子どもを持ちたい」という欲求が、本当に「本能」なのかどうかも疑わしい。確かに、性欲は本能かもしれない。しかし、性欲と「子どもを持ちたい」という欲求は、同じではない。避妊技術が発達した現代において、セックスと出産は切り離されている。「子どもを持ちたい」という欲求は、むしろ社会的・文化的に形成される部分が大きいのではないか。

考えてみれば、「子どもを持つことが幸せ」という物語は、社会によって繰り返し語られている。幼い頃から、人形遊びを通じて「お母さんごっこ」をする。大人になれば、「結婚して子どもを産んで一人前」というメッセージを浴び続ける。こうした社会化の過程を経て、「子どもを持ちたい」という欲求が形成されていく。

もちろん、欲求が社会的に形成されるからといって、その欲求が「偽物」だというわけではない。人間の欲求は、多かれ少なかれ社会的な影響を受けている。問題なのは、「子どもを持ちたい」という欲求だけが「自然」で「本能的」だと見なされ、「子どもを持ちたくない」という欲求が「不自然」で「異常」だと見なされることだ。どちらの欲求も、等しく尊重されるべきではないか。