満州事変から始まった「病理」

では、その満州事変はどう実行されたのか。

1931年9月18日の夜、中国東北部にある奉天郊外・柳条湖りゅうじょうこで満鉄線が爆破される。関東軍はこれを中国軍の仕業だとして総攻撃に移り、本庄繁司令官のもと奉天城を占領した。奉天総領事の林久治郎は「今次の事件は軍部の計画的行動」と幣原喜重郎外相に報告している。政府はすぐさま不拡大方針を閣議決定している。

ところが、である。関東軍は錦州へ進撃・爆撃し、朝鮮軍司令官の林銑十郎にいたっては独断で国境を越えて増援に向かった。政府の決定を、現地の軍が堂々と無視する。のちの日本を蝕んでいく病理が、ここで「成功体験」になってしまったのだ。

ちなみに、稀代の軍略家といわれる石原だが、実戦経験はほとんどない。この事変で自ら部隊を指揮した大興近郊の戦闘が、錦州爆撃を除けば軍人生活で唯一の実戦だった。

そして6年後。日中戦争で「不拡大」を叫ぶ石原自身が、今度は暴走を止められない側に回る。直属の部下である作戦課長・武藤章ら拡大派を抑えきれなくなる。武藤が石原に放ったとされる皮肉が、今村均の回想に残っている。

「私はあなたが満州事変で大活躍されました時分……あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で実行しているものです」

自分がつくった前例に、自分が敗れたのである。

日本帝国陸軍第二師団のチチハル入城
日本帝国陸軍第二師団のチチハル入城(写真=大阪毎日従軍寫眞班撮影/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「五族協和」の下にある冷たい戦略

石原は理想主義者でもあった。

若き日の石原は、辛亥革命の報に喜びで震えたというほど、中国に入れ込んでいた。満州国の建国では日中平等の「民族協和」を掲げ、日本の政治機関はできるだけ小さくして、政治は現地の協和会に任せろと主張した。東アジアの民族が対等に手を組む「東亜聯盟」の思想は、朝鮮や中国にも信奉者を生んでいる。侵略者のイメージとは、ずいぶん違う。

ただし、後年の研究者の目は厳しい。石原研究の古典を書いたアメリカの歴史家マーク・ピーティによれば、石原にとって「民族協和」は、近づく世界最終戦争の「武器庫のなかの一つの武器」にすぎなかったとしている。アジアとの提携も民族解放も、決戦準備への支持を集める手段だったと位置づけている。実際、1929年に石原が起案した「関東軍満蒙領有計画」には、満州の「軍政」統治が描かれている。当初の狙いは、独立国どころか「領有」だった。

高い理想と冷たい戦略。この2つを混ぜたまま突き進んだところに、石原の独特さと危うさがある。