天才軍略家は、なぜ挫折したのか

石原の構想は、結局ことごとく崩れたが、その崩れ方が現代の組織で働く人間には学びが少なくない。

まず、計画そのものが非現実的だった。総力戦に備えた「重要産業五年計画要綱」などの経済計画は、方向性こそ正しかったが必要な資源も人も、当時の日本ではどう逆立ちしても調達できない天文学的な数字が並んでいた。ビジョンがどれほど壮大でも、実行計画が破綻していれば絵に描いた餅である。

しかも石原は、その構想を根づかせないまま現場を去っている。満州国の建国が固まりきらないうちに東京へ転任となり、理想の実現を現地の協和会に託した。その後の満州では、関東軍や日本人官僚が政治を実質的に操る「内面指導」が強まっていく。

1937年、参謀副長として満洲に戻った石原が見たのは、かつて同志と夢みた民族協和、王道楽土とは全く裏返しの満州であり、出稼ぎ官僚や悪徳商人たちの「絶好の狩り場」になっていた。

関東軍参謀長の東条の一声で政治はどうにでも変わり、満州は利権集団に食い物にされていたのだ。石原は内面指導の停止を訴えたが、献策は東条にことごとく退けられる。かつて「上等兵」と呼んだ相手からの、意趣返しだったのかもしれない。

中央は中華民国国旗、左は軍旗、右は孫文旗
中央は初代国旗、左は軍旗、右は孫文旗(写真=リード・ダーモン『Made in China』/PD China/Wikimedia Commons

天皇も理解できなかった本心

また、多民族共学を掲げた「アジア大学」構想も、できあがった建国大学では帝国大学の模倣に変わってしまう。石原は開学前から中止を求め、「完全に失敗である」と言い切った。

とどめは、組織を動かす力の欠如だった。一緒に満州事変を起こした部下の片倉衷は、石原を「非常に頭のいい天才的な人」と認めたうえで、こう評価している。「アイディアの人、哲学の人であるけれども政治家じゃない」。参謀本部で構想を説いても理解されず、石原は孤立を深めていった。

理解しなかったのは、組織だけではない。

昭和天皇は戦後の『独白録』で、石原をこう評している。「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない」。無理もない話ではある。軍の統制を破って満州事変を起こした張本人が、陸軍青年将校のクーデター未遂だった2・26事件(1936年)では、一転して反乱軍の即時鎮圧を主張した。秩序を壊した男が、秩序を守る側に回る。天皇ならずとも、つかみどころがない。