太平洋戦争開戦時の首相であり、戦後はA級戦犯として絞首刑に処された東条英機とはどんな人物だったのか。ライターの栗下直也さんは「独裁者と批難されることもあるが、彼の政権は天皇の信任あってこそ成立するものだった。だが、そこには構造的な欠陥があった」という――。
『寫眞週報』第二百四十九號 (昭和十七年十二月二日)
『寫眞週報』第二百四十九號 (昭和十七年十二月二日)(写真=内閣情報局、印刷:内閣印刷局/PD-Japan/Wikimedia Commons

対米開戦の最強硬派・東条英機が首相になったワケ

1941年10月16日、日米交渉をめぐる閣内不一致で、第三次近衛文麿内閣が総辞職した。わずか2日後の18日。後継の首相に座ったのは、驚くべきことに対米開戦の最強硬派である東条英機陸相だった。戦争を避けたいならば常識的に考えれば最も避けるべき男のはずだ。

だが、推挙した木戸幸一内大臣の読みは、真逆だった。開戦へ突っ走る陸軍を抑えられるのは、陸軍の頂点に立つ東条しかいない。しかも東条は、天皇の意向を絶対視する男だ。木戸の上奏を受けた昭和天皇の一言を、木戸は戦後こう証言している。

「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」

猛獣に、猛獣使いをやらせる。完全な賭けだった。

首相になった東条の変貌ぶりは周囲を驚かせた。組閣にあたっては「9月6日の御前会議決定にとらわれず、内外の情勢を広く深く再検討せよ」という指示(木戸が天皇の「思召」として伝えた、いわゆる「白紙還元の御諚」)が示されていた。

東条はこの指示を受けて、それまでの強硬姿勢をいったん脇に置き、開戦方針を定めた「帝国国策遂行要領」を白紙に戻して再検討に入る。外相には対米協調派の東郷茂徳を据えた。

天皇の意向は…

最大の難関だった中国からの撤兵問題では、中国の大部分から2年以内に撤兵する一方、華北など一部地域には長期駐兵する妥協案(甲案)を示した。さらに交渉の最終盤には、南部仏印の部隊を北部仏印へ移して日米の通商関係を回復する暫定案(乙案)まで用意している。日独伊三国同盟についても自衛権の解釈を抑える姿勢を見せた。かなり思い切った譲歩である。

なぜ最強硬派が、ここまで交渉に力を注げたのか。

信念を曲げたわけではない。そもそも東条の行動原理は「開戦か和平か」ではなく、「天皇の御意向はどちらか」だった。天皇が交渉継続を望むならば、全力で交渉する。それが東条の信念であった。東条は上意を完璧に執行する「忠誠の人」だった。

だが交渉は実らず、12月、日米は開戦する。ここで論争になるのが、天皇の役割だ。

東条が日本を戦争へ導き、天皇は引きずられた――。

よく聞く話だが、歴史学者の藤原彰(一橋大学名誉教授)は「開戦を主張していた東條を首相とすることに、いささかも抵抗を感じなかったとすれば、この時点で天皇が対米開戦に反対してはいなかった」と指摘する。同じく歴史学者で京都大学名誉教授を務めた井上清も、東条の組閣を認めたこと自体が対米交渉の否定であり、開戦への傾倒に他ならないと論じている。

一方で、天皇は一貫して戦争に反対だったのに輔弼者(補佐する臣下)が押し切ったのだから責任は臣下にあるとする議論もある。評価は今も割れている。