これまでのどの首相よりも信頼された
開戦後、勝利が続くと東条と天皇の関係は蜜月を迎える。天皇の東条に対する高い評価は、敗戦後も残っていた。天皇は敗戦直後、側近に東条をこう評している。
「彼程朕の意見を直ちに実行に移したものはない」
2人の関係は、東条の一方的な進言に天皇が「しぶしぶ御同意」するようなものではなかった。戦況を報告する東条と天皇の間には「歴代の首相以上の信頼関係」があり、国務と統帥を兼ねる東条の「独裁化」は、天皇の承認があって初めて可能だったとの見方もある。
象徴的な出来事が2つある。
ひとつは、東条の働きかけで開戦1周年に際して実現した、1942年12月12日の天皇による伊勢神宮への御親拝だ。日清・日露戦争のときでさえ天皇自らが戦勝祈願に参拝した例はなく、近代日本の対外戦争では前例のない出来事だった。
忠臣が主君に願い出た戦勝祈願は、裏返せば、天皇を戦争の当事者としてさらに深く引き込むことでもあった。
もうひとつが1944年2月の参謀総長併任だ。首相と陸相に加えて、陸軍の作戦指導を担う参謀総長まで兼ねる。この異例の人事には杉山元参謀総長ら陸軍の重鎮が反対したが、それでも実現した背景には、歴史家の鈴木多聞の研究によれば木戸と天皇の支持があった。
つまり、「東条独裁」と呼ばれた権力集中は、東条が一人で奪い取ったものではない。天皇の信任があってこそ成立した権力だった。
2人でつくりあげた「東条独裁」
その信任は、人事の好き嫌いにまで及んでいた。
たとえば、シンガポール攻略で「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文である。1944年、東条が兼ねていた陸軍大臣の後任に山下を推す動きがあったが、実現しなかった。
天皇は戦後、その理由を「東条は山下の果断が東条人事を覆す事を恐れて、之に反対し、自分が留任すると云ひ出した」と振り返っている。
だが実は、天皇自身も山下を快く思っていなかった。2・26事件の際、山下が反乱将校に同情的だったことに遺恨があり、マレー攻略の大戦果のあとでさえ、昭和19年に至るまで拝謁を許していない。
東条が警戒する将軍を、天皇もまた遠ざける。2人の関係は、政策上の信頼だけでなく、人事感覚まで重なるほど近かった。
考えてみれば危うい構造である。信任が厚いあいだ、東条は誰よりも強い。内閣から独立して天皇に直属していた陸軍統帥部まで、参謀総長を兼ねることで自らの手に収めた。だがその強さは、主君の心ひとつで消えてしまう土台の上に立っていた。


