民間からの戦争を煽る空気

ちなみに、この蜜月期の空気を伝える興味深い史料がある。

開戦1周年の1942年12月8日、言論界の大御所・徳富とくとみ蘇峰そほうは東条にこんな電報を打った。

「閣下の明断勇決に最大の感謝を捧ぐ。日本の神々が閣下に倍旧の健康を賜ひ……ルーズヴェルト、チャーチルをしてかぶとを脱ぐに到らしめむことを祈る」

対する東条の返電は「御懇電を拝謝す。当時を追想し感真に深し」と淡々としたものだった。

首相本人より、民間の言論人のほうがよほど勇ましい。戦争を煽る空気は、軍人だけがつくったものではなかったことを忘れてはいけない。

1944年、戦局は坂道を転がり落ちる。2月には連合艦隊の根拠地トラック島が大空襲を受け、6月のマリアナ沖海戦では空母3隻と多数の航空機・搭乗員を失い、空母機動部隊の航空戦力は壊滅的な打撃を受けた。

基地航空部隊も大きく消耗し、サイパン島へ大兵力を送り込む余裕もなかった。徳富蘇峰が東条に「本土侵攻を防ぐため、サイパン死守の一大決戦を」と進言したときの東条の答えが全てを物語っている。

サイパンの橋頭堡にて、陣地へと這い進む海兵隊員
サイパンの橋頭堡にて、陣地へと這い進む海兵隊員(写真=アメリカ国防総省/W.wolny/国立公園局/PD US Military/Wikimedia Commons

サイパン防衛をめぐる東条の二枚舌

「敵が台湾や沖縄に来ては、こちらも困るから、それは極力防がねばならぬ」

つまり、サイパンは落ちてもやむを得ない。宮中や統帥部には「サイパン絶対防衛」を掲げながら、内々では防衛線を後ろへ下げる現実的な判断を下し、同時に政変の動きにも神経を尖らせていた。忠臣は、主君に対してさえ2枚の顔を使い分けざるを得なくなっていた。

追い詰められた東条は、戦意昂揚のための勅諭を出してほしいと天皇に求める。だが、天皇は断り続けた。

戦後の回想によれば、国民を鼓舞する詔書は「速やかに平和に還れとも云へぬから、どうしても戦争を謳歌し、侵略に賛成する言葉しか使へない」。それは皇室の伝統に反するというのが理由で、同じ要望は後継の小磯・鈴木両内閣からも出たが、すべて退けたという。木戸も同意見だった。

もっとも、政治史研究者の菅谷幸浩の見方は少し違う。この時期すでに木戸ら宮中側近は次の首相選びに動き出していた。東条内閣のもとで勅諭を出せば、内閣の延命につながってしまう。だから見送る必要があったという政治的な事情であった。