そしてあっけなく総辞職へ
かつて東条を首相に推した木戸が、今度は倒す側に回る。7月4日にはインパール作戦の中止が大本営で決まり、7日にはサイパン島守備隊が玉砕。絶対国防圏が崩れ始めていた。当時、陸軍省軍務局長だった佐藤賢了によれば、重臣層や翼賛政治会の一部で倒閣の動きが強まっても、東条は大幅な内閣改造によって、なお政権続投を狙っていた。
7月13日、東条は木戸に窮状を打ち明ける。「反戦厭戦の空気、統帥に対する批判等あり、政変を惹起し一歩誤れば即敗戦となるの虞れあり」。
米内光政・阿部信行ら「総理級」の入閣を含む改造案まで示したが、木戸が突き付けた条件は厳しかった。統帥の確立――つまり自らの参謀総長兼任をやめること、嶋田繁太郎海相の更迭、重臣層の把握――近衛や岡田啓介ら首相経験者たちの協力を取り付けることである。
だが、その重臣たちこそ倒閣運動の中心にいた。自分の権力基盤を自分で壊し、盟友を切り、敵に頭を下げる。どれも事実上、飲めない条件だった。天皇の信任という唯一の権力基盤を失った東条に、もう抵抗する術はなかった。東条内閣は総辞職する。
主君の信任だけを拠り所にした権力者は、信任が消えた瞬間、驚くほどあっけなく崩れる。これは今も昔も変わらない。組織の鉄則だ。
遺書に残された「造反」
1948年12月、東京裁判で絞首刑となった東条の遺書には、次のような言葉が並んだ。
「天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する」
裁判そのものへの恨み節もあった。「此の裁判は結局は政治的裁判で終わった」。そして「天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。……存在そのものが絶対必要なのである」「空気や地面の如く大きな恩は忘れられぬ」。死の間際まで忠誠が揺るぐことはなかった。
ところが、遺書の最後の一節で意外なことを書き残す。「我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない」。
政府が軍を統制できない「統帥権の独立」。それこそが陸軍の暴走を許し、東条自身が参謀総長併任という禁じ手でしか乗り越えられなかった構造欠陥だった。体制に忠実に殉じた男が、処刑を前にして、その体制そのものの欠陥を遺書に書き残したのである。
一方の天皇も、後年、東条を首相に据えた理由をこう振り返っている。
「私のいふ事はきいてくれるかと思ひ、又話も分り実行するといふ期待で[首相任命を]やつた事だが、結果はあの通りとなつて了つた」
よく聞いてくれるから任せたら、あの結果になった。忠誠で結ばれた主従の悲劇を、これほど簡潔に言い当てる言葉もないだろう。
ビジョンなき忠誠は、欠陥のあるシステムを全力で回すことになる。東条の生涯が教えてくれるのは、そんな悲劇だ。
主要参考文献(孫引きを含む)
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一ノ瀬俊也「東條英機と石原莞爾 天皇陛下の好き嫌い」『文藝春秋』2024年8月号
藤原彰「天皇制イデオロギーと憲法の危機」『季刊 科学と思想』1981年7月号
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長谷川正安「昭和史と天皇の戦争責任」『文化評論』1986年4月号
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寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著『昭和天皇独白録』文藝春秋、1991年、木下道雄『側近日誌』文藝春秋、1990年、田島道治著、古川隆久ほか編『昭和天皇拝謁記3』岩波書店、2022年、木戸幸一著、木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記』東京大学出版会、1966年、東京裁判研究会編『東條英機宣誓供述書』洋洋社、1948年 ほか

