「陰湿なマウンティング」という批判もあるが…

「一見どこのブランドかわからない無地の服に数十万を払うのは、下等な大衆と自分たちを切り離すための選民思想(マウンティング)だ」という見方もある。

確かに、巨大なロゴの入った15万円のTシャツは、街を歩けば誰にでも「ルイ・ヴィトンだ」「バレンシアガだ」とわかってしまう。それはある意味で非常に民主的で、わかりやすいステータスだ。だからこそ新興層はそれに飛びつく。

しかし、クワイエット・ラグジュアリーを愛好する層は、そうした「誰にでもわかる記号」を下品だと切り捨てる。彼らが好むのは、「ロゴがなくても、生地のドレープ(ひだ)の落ち感や、上質なカシミヤの質感、そして絶妙な色彩のトーンだけで、どこのブランドかを当てられる同階層」だけに向けた暗号(パスポート)としての服である。

その意味で、一見上品に見えるクワイエット・ラグジュアリーこそが、実は「わかる人にしかわからない」という究極の選民思想に基づく、最も陰湿で攻撃的な階級マウンティングとして機能している側面は否定できない。

「ロゴでしか価値を判断できない無知な人々には、私が着ている服の本当の価値は一生わからないだろう」という、強烈な知的優越感がそこには潜んでいる。

根本にある“恐れ”の正体

しかし、マーケッターの視点から言えば、クワイエット・ラグジュアリーを単なる陰湿な階級闘争やマウンティングとして片付けるのは、あまりにも一面的だ。彼らの選択の根本には、現代の社会構造に対する切実な防衛本能がある。

現代は、誰でもスマートフォンで写真を撮り、Googleレンズで検索すれば、1秒でその服の「正解(ブランド名と価格)」がわかってしまう残酷な時代である。そんな情報過多な社会において、わかりやすい巨大なロゴを身につけて街を歩くことは、自らを「資本主義の広告塔」に貶める行為であることに、教養ある富裕層は気づいたのだ。

他人に「私は15万円のハイブランドを着ている」と主張することは、裏を返せば「自分の価値を証明するために、ブランドの威光にすがりついている」という自信のなさの表れでもある。すべてを手に入れた本物の富裕層にとって、他者からの承認(いいね)はもはや必要ない。

彼らが恐れるのは、自分自身のアイデンティティや知性が、ブランドのロゴという「外部の記号」に乗っ取られ、消費し尽くされてしまうことなのである。