「デジタルなしでは生きられない」という錯覚
このままデジタル機器や生成AIを使用し続けた場合、機械に頼って脳を使わなくなることで、思考力や判断力の低下が加速度的に生じるでしょう。AIが出した結論の理由など、開発した技術者にも分からないのです。生徒は自分の考えに自信が持てなくなりますから、考えること自体をやめるようになります。そうした思考停止ほど恐ろしいことはありません。
また、SNSやAIは依存症になるリスクがきわめて高いのです。使用を禁止されても、使いたくて仕方がないという状況に陥るでしょう。デジタル機器は本来なくてもよいものなのに、「SNSやAIなしでは生きられない」というような錯覚を起こすようになります。
大人も例外ではありません。メールやLINEの返信がすぐに来なかったり、注文品がなかなか届かなかったりするだけで、いらついたり短気になりがちです。それが子どもたちの身に起これば、授業に集中できるものではありません。この後戻りできない状況が教育にとってどのくらい恐ろしいことか、真剣に考える必要があります。
北欧では「紙回帰」が進んでいる
スウェーデンやフィンランドでは、デジタル教科書から紙への回帰が見られますが、これは北欧特有の問題ではなく、彼らが先んじて極端なデジタル化に舵を切った分、早く悪影響が表れただけのことです。
ところが日本は「新しもの好き」で付和雷同しやすいですから、紙へ回帰する前に流されて終わりでしょう。
もちろんこれまでの「ゆとり教育」などの政策も、数年後に悪影響が出た後も何ら責任が追及されませんでした。AIの使用を扇動する火付け役である開発者、そして国や教育委員会は、教育の将来に禍根を残すことになるかもしれないという可能性を一顧だにしていないようです。そして、今後生じる深刻な学力低下と判断能力の喪失に対して、日本では検証や追及が行われることもないと思います。
それが実際にできた北欧は、真の先進国だと言えるでしょう。
このような状況を断ち切るために学校教育ができるのはどのようなことでしょうか。
それはデジタル機器や「合成AI」がある程度まで遠ざけられる芸術科目や体育などを通し、創造的な人間力や非認知能力を取り戻すことです。
つまり、体育や音楽、美術、書道、読書などの時間を十分に確保して、情操教育の比重を高めるのです。それは、デジタル機器をまったく使わない、使わせないという「デジタルデトックス」の機会を極力作るということでもあります。

