「合成AI」がもたらす危機
生成AIは、正しくは「合成AI」と呼ぶべきです。これは、AIが言葉を生成しているわけではなく、単に単語や文字を並べているだけだからです。
真の「生成」は規則的な言語能力を指すので、AIに用いるべきではありません。「合成AI」は、複数の情報を合成するだけですし、何でもありですから。私の著書『デジタル脳クライシス』(朝日新書)でも解説しましたが、ChatGPTなどのチャットボットも人の心を理解してやり取りしているわけではなく、あくまで「対話風」です。
そもそもなぜ「合成AI」を、競うように学校現場に取り入れる必要があるのでしょうか。多くの人が言うのは、「効率的である」とか「便利である」ということですが、そのような観点から教育を捉えること自体が間違っています。
教育において、「短時間で覚えられればいい」などという価値観はゼロです。むしろ、教育とは繰り返しやって、それでも忘れてしまい、また繰り返しやってみる、そういう非効率なことの積み重ねです。効率という価値観を教育に持ち込むことは、自ら考えること、判断することの放棄に等しいのです。
都立学校での運用が始まっている
今までの学習における研究の歴史を振り返ってみても、デジタル機器なしで十分な学習効果が上げられてきました。一方、デジタル機器の「活用」の成果はほとんどありません。
北欧では、デジタル機器が教育に対して負の効果を及ぼしているという結果も出ています。
ところが日本では、たとえば東京都が、二〇二五年五月より全都立学校で生成AIを活用した学習を進めるという「都立AI」の運用を開始しました。これは非常に危険なことです。他府県も追随して導入する可能性があります。AIを使うことで生じるリスクについて議論をせずに飛びついたわけですが、それに対する責任は誰が取るのでしょうか。
たとえば「都立AI」の内容には、「生成AIに俳句や笑い話を作らせて、生成AIの得意分野と苦手分野を知る」というものがありますが、そのこと自体が笑い話のようです。これは真剣な議論がなされた結果なのでしょうか。

