細川家は肥後藩主に、首相を生む
幽斎は一旦開城に応じて、八条宮智仁親王に「古今伝授」の書類を渡して再び籠城した。しかし、後陽成天皇は、もし幽斎が討ち死にすると日本の歌道にとって大きな痛手になると考え、再度、幽斎の助命の勅令を発した。かくして、9月13日に幽斎は田辺城を開城、亀山城に退いたが、わずか500の兵で1万5000もの大軍を2カ月にわたって引き留めた功績は高く評価された(ただ、気の短い忠興は、父の煮え切らない態度を嫌悪して、しばらく義絶したという)。
かくして、細川家は御家存続となり、江戸時代は豊前国小倉藩の大大名に(肥後細川家)。約400年後、子孫から第79代総理大臣・細川護煕を生んだのである。


