絶体絶命のピンチ、芸は身を助く

意外に知られていないが、天下分け目の合戦は関ヶ原だけで行われていたわけではない。日本各地で毛利・石田勢と徳川勢の合戦が行われていた。その一つが丹後田辺城(京都府舞鶴市)の攻防である。

現在の舞鶴城(細川藤孝がこもった丹後田辺城)、2005年
現在の舞鶴城(細川藤孝がこもった丹後田辺城)、2005年(写真左=Sea of Japan/Self-published work/Wikimedia Commons

当時、細川(実際は長岡)家は田辺城を居城としていた。そこに籠もる細川幽斎(藤孝)を、毛利・石田勢1万5000の兵が包囲した。守兵はわずか500。絶体絶命のピンチである。ここで意外なところから幽斎の支援が訪れる。後陽成ごようぜい天皇が講和の勅令ちょくれいを発し、幽斎の助命を嘆願したのだ。それは幽斎が当時唯一の「古今伝授こきんでんじゅ」の伝承者だったからだ。

聖護院道澄・里村紹巴・里村昌叱・細川藤孝等筆「連歌懐紙」、室町時代。九州国立博物館(福岡県立アジア文化交流センター)所蔵を一部加工
聖護院道澄・里村紹巴・里村昌叱・細川藤孝等筆「連歌懐紙」、室町時代。九州国立博物館(福岡県立アジア文化交流センター)所蔵を一部加工 出典=ColBase

古今和歌集』の読み方・解釈などの秘事は、藤原定家以来、代々口伝くでんで継承されており、幽斎は元亀2(1572)年に三条西実澄から伝授されている。幽斎が八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)に古今伝授している最中に関ヶ原の合戦が始まり、継承が中断されてしまったので、後陽成天皇はその途絶を恐れたのである。

※編集部註:初出時に丹後田辺城(京都府京田辺市)と掲載していましたが、(京都府舞鶴市)でしたので訂正しました(7月20日16:00追記)。