二代の天皇や要人を診察した佐藤
佐藤は子規のほかにも、明治天皇・大正天皇をはじめ、東郷平八郎、原敬、教育家の下田歌子ら各界の要人を診療し、皇室の侍医も務めた。外科医であると同時に、教育者でもあった。外国人教師に頼っていた外科を、日本人の手で担う段階へと進め、後進を育てる中心に長く立った。明治32年(1899年)には第一回日本外科学会で初代会長に選ばれ、幹事には、のちに日本の整形外科を切り拓く田代義徳らが名を連ねている(日本外科学会「日本外科学会の足跡」)。その設立趣意書には、かつて手をつけられないとされた臓器も、もはや外科の領分だと記されていた。外科が扱う範囲が大きく広がっていく時代である。
明治34年に附属医院長、大正7年(1918年)には東京帝国大学医科大学長に就き、大正11年には貴族院議員に勅選された(「佐藤三吉関係資料」)。なお、同じ明治の外科に、リスター流の防腐法を日本へ持ち帰った順天堂の佐藤進という別人がいる。同姓で混同されやすいが、ドイツ仕込みで帝国大学の外科を率いたのが、こちらの佐藤三吉である。
昭和18年、85歳で亡くなる
私生活では、佐藤は岐阜県令・知事を長く務めた小崎利準の長女・滋子を妻に迎えている(『人事興信録』第8版)。小崎は伊勢亀山藩の出で、明治の前半を通じて佐藤の郷里・岐阜の県政を率いた人物だった。大垣の藩士の家から身を起こした佐藤は、故郷を治めた一家と縁を結んだことになる。
佐藤三吉が世を去ったのは、昭和18年(1943年)6月17日。没してから、今年でちょうど83年になる。郷里の大垣では今も「外科の佐藤」として、郷土の偉人に名を連ねている。日本の近代外科を築いた一人を、ドラマは今井益男というヒロインの対立者として描いている。その人物像をドラマがどこまで深く見せてくれるのか、今後も見届けたい。
・参考資料
アジア歴史資料センター「佐藤三吉外二名医科大学教授ニ任叙ノ件」、東京大学文書館デジタル・アーカイブ「佐藤三吉関係資料」、東京大学医学部脳神経外科「沿革」(『東京大学医学部百年史』に基づく)、日本外科学会「日本外科学会の足跡」、平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」(『日本医史学雑誌』第36巻第3号、1990年)、『昭憲皇太后 附女四書』、村上信彦『近代史のおんな』、『「大関和」を通して見た日本の近代看護』、別冊太陽『大関和』、MSムック『大関和と鈴木雅の人生』、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)、『人事興信録』第8版(昭和3年)、国立国会図書館レファレンス協同データベース(正岡子規の手術に関する事例。『子規全集』書簡・略年譜に基づく)、子規庵「正岡子規について」、大垣市公式サイト「郷土の偉人 佐藤三吉」、NHK「風、薫る」公式サイトおよび各話あらすじ


